<第三部、対他存在>
対他存在とは
人間には、「対自存在」とは異なる、もう一つ別の在り方(存在類型)があります。
それが「対他存在」です。
「対他」とは、「他者にとって」「他者に対して」という意味です。
例えば、私が私自身に対して関心をもつ時、単純に対私的ですが、羞恥のように他者を媒介とした私自身への関心(他者に対して現れているであろう私についての関心)を対他的と呼びます。
対他存在とは、他者にとって現れる私を気づかう私の在り様のことです。
これは他者の目のうちにある私の姿そのもののことではなく、それに囚われた私自身のうちの問題であり、責任者は私です。
[私は決して他者には成れないので、他者の目に映った私の姿など、あくまで私の想像でしかなく、原理的に対他(他者にとってのもの)は私のなかの問題でしかありません。要は、自分の視点(自分にとって)で主体的に生きる時は対自的ですが、他人の目を気にして生きる時は対他的であり私は対他存在という在り方にあるということです。]
他者と私はお互いの成立条件
私という存在にとって他者という存在は必要不可欠です。
私は他者という媒介者を通してしか自己を確立できません。
「私を排除するところの者(他者)」がいて、私が存在し、私が私であることによって「私が排除するところの者(他者)」がいます(有名なだまし絵「ルビンの壺」において、壺と顔が同時に各々の存在条件なのと同様です)。
お互いが他方を把握し合いながら、同時に相手の中に自己自身を見出し合うような相互関係の地盤において、私たちは存在します。
私というものは他人の視点から見ることにおいてしか対象になりえず、私という存在(~である)の承認は、他人が有しているものです。
私という存在は常に他者に依存しており、私自身にとっての私の存在(対私的)と他者にとっての私の存在(対他的)は対立するものではなく、他者を基礎とした対他存在というものが、即、私の存在の条件なのです。
他者の成立(構成)も直接的で内的で相互的なものであり、一方的、一義的に私が構成するようなものではなく、「共にある存在(ハイデガー)」なのです。
まなざし
私と他者の根源的な関係を日常において示してくれるものに「まなざし」があります。
例えば、私の眺める風景の中に一人の人間がいたとしても、それを単なる対象-事物と見ていれば、私の世界は安定しています。
しかし、その人間を人間(私とは別のパースペクティブを持つ見る主体、主観)として見るならば、私の世界には穴が穿たれ、その他者の方へ向かって世界は流出し、崩壊していきます。
この時、他者は、私の世界の中の空隙、「世界の不在」としてあります。
他者は単なる対象ではなく、私にまなざしを向ける者であり、宇宙の中に発生するもう一つの宇宙の様に、私の世界に真空の穴を開け、内部から侵食していきます。
先にも述べたように、対他存在の責任者は私であり、他人のまなざしに対する責任は私自身にあります。
他者の眼は、他者が居ようが居まいが、カーテンのかすかな動きや半開きの扉や足音など、いつでも私に向けられる可能性があります。
私を対他存在とする「まなざしを向ける者」は、特定の形態をもつ者ではなく、対象としてはとらえられないそれ以前の実在、ハイデガーの言う共同存在、「ひと(世人、世間)」のようなものであり、私はどんな状況であれ絶えず「ひと」にまなざしを向けられています。
勿論、「まなざし」と言っても、それは感覚器官としての眼のことではなく、主観および私の世界を生じさせるパースペクティブの視点のことです。
さらに言えば、それは決して対象になりえない主観、パースペクティブの内部には決してあらわれることのない視点、のことです。
まなざしによって他有化される私
私が廊下から部屋をのぞき見していたとします。
鍵穴の向こうの世界は、安定した私の対象の世界です。
その時、急に廊下で足音がして、「他者が私にまなざしを向けている」と思った瞬間、私の世界は崩れ、私は自由な対自ではなく、他者に見られる対象(即自)となってしまいます。
他者の宇宙(世界)の構成物として、私は凝固されます。
対自(私)は私の諸可能性に向かって超越していくものでしたが、それが今度は他者の可能性によって超越されるものとなるのです。
他者のまなざしは、私の諸可能性の他有化です。
他者の世界という交通不能な別の世界へ、私の世界を流出させます。
私と対象との距離を否定し(私=対象にすること)、他者は距離を占有します。
私の諸可能性は死に、他者の自由に隷属します。
まなざしによって他有化する私
しかし、ある他者のまなざしを、そこに在するようにするのは、私自身です(対他存在の責任者は私)。
だから、私は「まなざしを向けられるまなざし」から、「まなざしを向けるまなざし」へと転回し、他者をあらぬようにすることもできます。
今度は他者の超越および諸可能性が、私によって超越される超越、私によって超越される諸可能性(死せる諸可能性)になります。
私と同じく、主観、対自である他者の「アンガージュマン(自己拘束)」は、対象、即自としての単なる「拘束状態」になります。
他者を私の世界の対象的存在となすのです。
勿論、これはまたいつでもひっくり返されるオセロゲームのようなものであり、私は常に他者によって他有化される可能性をもちます。
対自存在としての身体
私たちが一般的に身体と呼ぶもの、医学や生理学で扱うような身体は、他人という観察者が見た対象、事物存在としての私の身体であって、私にとってあるがままの身体ではありません。
考察すべきは対自存在としての身体、対他存在としての身体です。
対自はある特定の観点(パースペクティブの視点)のうちに自己を拘束していき、ひとつの世界(私の世界)をそこに存するようにするものです。
ある者が存在するとは、かけがえのないその人独自の観点と状況「“そこに”ある」ということです。
私とはその観点そのものです。
最初に「対自の事実性」として述べましたが、私は何の理由も知らされず、この場所この時代に生れ、投げ出され(被投性)、そこから自分自身の企て(投企)によって自己を選択し私の状況、私の世界を作っていきます。
私の選択、自己拘束によって状況を作っていくこと「“そこに”ある」ようにすることは必然的であるにしても、私が存在するということそのものは偶然的であり、また、何ゆえに私は他の観点ではなく、この私という観点に拘束されているかということも偶然的です。
対自の事実性とは、このひとつの必然性を挟む二つの偶然性のことであり、身体とはこれを基盤(定義)とする対自の状況にほかなりません。
あるがままの身体は、対自にとっての対象(即自)でも、認識されるようなものでもなく、私によって超出されるものとして、私の地盤としてあるものなのです。
あるがままの感官(対自としての感官)というものも同様に、対象としてとらえられるものではありません。
「眼は自分で自分を見ることはできない」のであり、それは見る対象を通して逆照射的に与えられるものです。
諸対象は常にあるパースペクティブの体系内に秩序つけられ配されていますが、それは同時に諸対象が常に秩序の中心を指し示しているということです。
この帰趨中心をなすものが感官であり、身体なのです。
当然、この中心そのものは見ることができず対象になりえません。
【解説】
例えば、対象の見え方(ここではパースのつき方)によって、見る人の視点の位置が正確に分かります。
空き缶のど真ん中に視点を合わせて缶を見た場合、遠くにある空き缶の上下はほぼ直線に近いなだらかな曲線を描きますが、至近距離から見ると円弧に近いような曲線を描きます。
この変化の度合いによって、視点と対象との距離が比例関係として測定できます。
このように対象のどうあるかは、同時に、常に見る主体のどうあるかを示しています。
これはあらゆる感覚器官について同じことが言えます。
【解説おわり】
ひとつの世界が存在するということと、ひとつの私の身体が存在するということは、同一のことです。
私の身体は、世界のいたるところに存在します。
通り過ぎるパトカーのサイレン音や、歩くにつれ変化する木漏れ日や、信号に隠れる道路標識など、諸事物は世界に展開しつつ、同時にそれは私の身体という中心に集約されています。
私の家が破壊される時、それは同時に私の身体をも侵害することになるです。
この身体の本性は、対自によって超出されるものであるということです。
身体は事物(ハイデガーの言う道具的)の中心、私の世界を構成する観点でありながら、同時に出発点であるのです。
私(対自)が絶えず超出しつつ、その背後に残る地盤のようなものとして身体はあります。
私(対自、意識)にとって身体とは、それに対して観点をとれない観点であり、用具として利用できない用具であり、「私の身体が存在する」のではなく、「私は私の身体を存在する」と言うべきものなのです。
対他存在としての身体
他者にとって存在する身体(対他身体)は、私にとってあらわれる他者の身体も、他者にとってあらわれる私の身体も、対象化されたもの、超越される超越です。
他者の身体はあくまでも二次的な帰趨中心であり、私の眼前の事物(道具的)は先ず私を中心に指し示すと同時に、二次的に他者の身体を指し示しています。
私(対自存在として)の身体は、観点をとることのできない観点、用具として利用できない用具でしたが、反対に、他者の身体は、ひとつの観点に観られる観点、用具として利用可能なひとつの用具として、あらわれます。
結局、他者の身体も、私の身体を指し示しています。
諸事物(道具的)が私を指し示すことによって、諸事物の内に私の身体があらわれていたのと同様に、諸事物に他者の身体があらわれています。
招かれた家の主人に挨拶をする前に、「彼が-着るための-服」「彼が-読むための-本」「彼が-座るための-椅子」など、すべてのものがその中心である主人を指し示し、その主人の「そこにある」(ある者が存在するとは、かけがえのないその人独自の観点と状況「“そこに”ある」ということ)があらわれています。(ハイデガーの項を参照)
そして、実際に主人に会って、私は「このもの」として主人の身体を見ます。
他者の身体とは、私の世界のうちに、他者がこのものとして存在することにおいて表現される「そこにある」という事実です。
他者の身体は孤立したものとして知覚することはできず、それを指示する全体的、総合的な状況に依ってしか捉えることはできません。
例えば、握り拳それだけでは、なにものでもなく、それは状況の中の身体という全体からとらえる時、はじめて「怒り」という行為になります。
[もし、私の身体と全く同じ複製人間をぽつねんと作ったとしても、それは私の身体にはなりえません。私の身体の自己同一性は、私という状況“そこにある”ことにおいて保証されているものであり、別の状況に生まれた複製人間は、まったく別の他者でしかありません。]