サルトルの『実存主義とは何か』(2)

哲学/思想

(1)のつづき

実存主義の厳しい楽観論を人は恐れ非難する

これでご理解いただけたと思いますが、実存主義を悲観論だと非難する人たちは、結局、実存主義の楽観論の厳しさに対して難じているのです。
実存主義が醜悪で卑劣で無力な人間やその環境を描き、かつその状況に対して彼自身に全責任があると言う特、「救いがない」と非難されます。
しかし、そう非難する人たちが前提としているものは、本質が実存に作だつ人間、いわば自由のない物質のような人間なのです。
英雄は英雄であるがゆえに英雄であり、卑劣感は卑劣感であるがゆえに卑劣感である、と。
そう前提すれば、人間は永久不変の無責任を手にすることができるからです。
「私が卑劣感であろうが、彼が英雄であろうが、それは生得的なもの(本質)なので、どうしようもないし、何の心配もいらないし、私は何をしなくてもいいのである」と。
[僕がバカなのは、持って生まれたもの(本質)だから、勉強しなくてもいい。という小学生の言い訳理論と同じです。]

それに対し実存主義はこう考えます。
英雄は必ず英雄を辞める可能性を持ちつつ、尚も英雄であり続けようと自己を拘束(アンガジェ)するからこそ尊く、卑劣感は必ず卑劣感を止める可能性をもっているがゆえに尊いのです。
実存主義のモラルは、「希望は君自身の行動においてしかなく、人間を生かすものは行動のみである」と説くのであり、これほど救いのある楽観論は他にないのです。

自己と他者をつなぐ相互主観性

「実存主義は人間を主体性の殻に閉じ込める」と非難されます。
しかし、哲学的に厳密であろうとすれば、デカルト的なコギトの明証性を出発点にせざるをえず、それ以外に基礎を据える人間に関する学説はむしろ真理を覆い隠すものにしかなりえません。
勿論、実存主義の主体は、デカルトやカントとは反対に、コギトによっておのれを捉えつつ、同時に他者の存在をそこに発見します(いわゆる相互主観性のこと)。
私以外の自由な主体(他者)は、むしろ私の存在条件であり、私はこの相互的な主体の世界の内においてのみ、自分のあるところのもの(自己同一性)、他者があるところのものを決定できるのです。
[例えば、太郎さんが優しく真面目で勇敢な人間である(あるところのものである)のは、自由な他者のまなざし(~にとって)によってはじめて成立するものです。私が私に関して持つあらゆる認識は他者の存在を通してしか把握しようがなく、互いが互いの意志によって関わり合う相互的な網目の中においてしか、私も他者も何者かであることはできないのです。]

自己と他者をつなぐ普遍的な人間の条件

人間の普遍的本質(本性)は存在しないにしても、普遍的な人間の条件の素描は可能です(ハイデガーが『存在と時間』でしたように)。
人間は世界の内に存在し、その内で行為し、他人の間に生き、そして死ぬという万人共通の必然的条件がありますが、そういう、世界における人間の先験的で基礎的なあり方及び状況の記述をなすことです。
投企は個人的なものでありつつ同時に普遍的なものでもあり、あらゆる投企は、あらゆる人に理解可能なものとして開かれているのです。
資料か充分揃っていれば、投企を介して外国人や子供や未開人や精神病者を理解することは可能であり、そういう意味で人間には普遍性があると言えるのです。
人間の普遍的な条件(自由、投企、アンガジュマンなど)という絶対的もの(条件)から生じる(結果する)文化・状況的相対性は、互いにつながりあっており、同時に示す必要があるのです。
[例えば、人間は本質的に善を志向する(性善説)わけでも、本質的に悪を志向する(性悪説)わけでもありませんが、何かを志向するということにおいては共通しています。ということは、善人なり悪人なり、その個別的な状況のデータさえあれば、共通する志向を頼りに理解し合うことが可能であり、そういう面では人間に普遍性があるとサルトルは言います。]

自由と拘束は表裏一体である

さらに実存主義はアナーキズムだと以下のように非難されます。
1.「人間は何を選んでもよく、何をやってもいいことになる」
2.「各々の投企に差をつける根拠がなく、人間は人間(他人)を裁くことが出来なくなる」
3.「選択は無動機であり、各々が自分勝手に物事に価値を与えることになる」
これら誤解をひとつずつ解きほぐしていきます。

1.「人間は何でも選ぶことができる」という批判に対して
まず、私の前にある選択肢は、既に可能性によって限定されており、そもそも不可能なものは選びません。
人間は常に何らかの組織化された状況の中で選択せざるをえず、選択によって自分自身をその中にアンガジェ(自己拘束、社会参加)していくしかありません。
何も選ばないということすら責任を負う選択であらざるをえず、気まぐれや思いつきなど入り込む余地はないのです。

例えば、画家は絵を描く前に完全な完成のイメージ(本質)をもっていて、それを目指して機械的に筆を動かす複製機械人間ではありません。
今あるカンバスという構成(状況)の中に、時に迷い、時に果断に、一筆一筆選択しながら自分を投じていくのであり、描くべき絵というものは、完成するまでは決して誰にも分からないということです。
完成した時、はじめてその絵の価値や本質が、その筆跡(タッチ)のまとまりの中に見出されるのです。
[サルトルは人間には本質がないと言いますが、それは生きている間だけのことです。投企の可能性がなくなり(要は死ぬこと)、本質を選択・創造していく過程が止んだ時、はじめてその人の本質は固定されるということです。]

このカンバスに限界付けられた状況と、創造していく選択の過程、そして一筆一筆の選択がまた新たな拘束、状況になる、そういう選択(投企)を重ねていく生成の過程こそが、実存のあり様なのです。
ここにおいては選べること(自由)と選べないこと(拘束)が表裏一体(弁証法)の関係にあり、これを見ない場合に限り“拘束なき自由”などという一方的な批判が生じるのです。

欺瞞とは論理的矛盾、道徳とは自由の裁定である

2.「人は他人を裁くことが出来ない」という批判に対して
もし誰かが、自己のかけがえのない本来的な在り方(ハイデガーの項を参照)の中で、自分の投企を真剣に考え選び取ったものであるなら、それがいかなる選択であれ、私は彼を裁くことはできません。
しかし、その選択が非本来的な欺瞞的なものである場合は、論理的判断(真偽)に従って、それは誤りであると裁定することができます。
誰かが何かを欲しつつ、それを先験的な本質や決定論によって覆い隠す時、それは単純に論理的に誤っているのです。
「私はあるものを欲しかつ強制される」というのは矛盾した命題であり、それを偽として裁くことができます。

さらにこのことは論理的判断だけでなく道徳的な判断にもつながっています。
例えば、愛した男性に婚約者がいた時、個人の欲望よりも社会の連帯が大切であると考え身を引くことを決断するAさん、反対に、社会よりも個人の幸福が大切であると考え婚約者から男性を奪うことを決断するBさん、がいたとします。
この対立する二つの行動に対し、実存主義は道徳的な価値判断を下せず、等価であると裁定します。
なぜなら、共に自己の主体的な決断であり、自由に則ったものだからです。
しかし、もし、Aさんが仕方ないと言ってむしろ諦めによって男性を捨てる場合や(仕方ないという言葉の真意は、自分の行動選択の責任を他者-環境-に丸投げすることです)、Bさんが意も介さず欲望に従い男性を奪おうとする場合、それらは道徳的に劣った価値のものとして裁定することができます。

個人の具体的な行動選択においては、つねに状況が異なっており、カントのように普遍と形式のみによる抽象的な道徳原理では裁定に失敗するということです。
個々の事例における道徳の内容は変化しつつ、尚且つ、ある普遍的な裁定基準を有している必要があるのです。
その基準となるものが、人間それぞれが唯一共通のものとしてもつ、“主体的自由(と責任)”なのです。
その行動が自由(と責任)の名において決断されたものであるかどうか、ということが重要になってくるのです。

実存主義的ヒューマニズム

3.「各々が自分勝手に物事に価値を与える」という批判に対して
人間が神を殺し絶対的な価値を葬った以上、わたしたち自身で価値を作っていかねばなりません。
人間の人生は先験的には何の意味も価値ももたず、無でしかありません。
人生に意味を与えるのは私たち一人一人の仕事であり、失った価値をそれぞれの行動によって創出していかねばならないのです。

私(サルトル)は小説『嘔吐』においてヒューマニズムを愚弄したと非難されます。
しかし、それは神の代替物として、人間をそこに据え、崇め、人間を最高の価値を持つ究極目的とするような伝統的なヒューマニズムを指し非難したものです。
その人類礼賛は最終的にファシズムに帰着するからです。

実存主義的ヒューマニズムにおけるヒューマン(人間)とは、究極目的になりえず、むしろ過程において創出されるべきものなのです。
私は自己の内に本質として存在する究極目的となるべき“人間”というものを参照しながら、それをなぞることで完成する自己完結的な存在ではありません。
むしろ人間はつねに自己の外にあり、未来に向けて投企し、自分が自分の外に出ていくことによってはじめて存在しうるものなのです。
世界(人間にとっての)というものも、この乗り越えに関係してしか存在しえません。
[人間存在は工業製品のように、事前に与えられた意図や設計図(いわば本質)通りに製作することによって存在するものではありません。芸術作品のように、制作者の意図もイメージも柔軟に変化してゆく一筆一筆の作品の生成の中にしか存在しないものです。前者は理念の内に閉じ込められた人間(典型がファシズム的人間観)であり、後者は具体に向かって自己を発見していく人間です。]

おわりに

[最後はサルトル自身の言葉でまとめてもらいます。]

実存主義とは、一貫した無神論的立場からあらゆる結果を引きだすための努力にほかならない。この立場はけっして人間を絶望に陥れようとするものではない。しかし、すべて無信仰の態度をキリスト教徒流に絶望と呼ぶなら、この立場は本源的絶望から出発しているのである。実存主義は、神が存在しないことを力のかぎり証明しようとするという意味で無神論なのではなく、むしろ、たとえ神が存在してもなんの変りもないと明言する。~人間は自分自身を再発見し、たとえ神の存在の有効な証明であろうとも、何ものも人間を人間自身から救うことはできないと納得しなければならない。この意味で実存主義は楽観論であり、行動の教義である。キリスト教徒が自分自身の絶望とわれわれの絶望とを混同し、われわれを絶望者と呼ぶのはただ欺瞞によってである。(伊吹武彦訳『実存主義はヒューマニズムである』人文書院)

 

おわり

 

※あくまでもこれは本書(1945年の講演記録)の内容を講演風にまとめたものであり、抄訳でも編集ものでもありません。サルトル自身の言葉ではなく、分かりやすく解釈し直したものですので、誤って引用などしないでください。