映画の弁証法
映画理論において最も重要なものとして、エイゼンシュテインのモンタージュ論というものがあります。
それは弁証法という哲学独自の概念を基礎にして、映画(あるいは広義に芸術)を作ることです。
弁証法とは何か
(分かる人は読み飛ばして構いません)
弁証法とは、古代ギリシャをはじまりとする西洋思想の根幹にある哲学的概念、あるいは方法です。
同じ弁証法といっても思想家によって定義が全く異なりますが、特にヘーゲルにおいて万物に通底する根本原理として定式化され直した「弁証法」が、最も一般に普及しているものです。
ざっくり言うと、「A(テーゼ)」というものに対し、それを否定する「非A(アンチテーゼ)」というものをぶつけ、それらふたつを統合し、あらたな「B(ジンテーゼ)」というものを導出します。
さらにこの「B」をテーゼとするアンチテーゼ「非B」をぶつけ、新たな「C」を導出する、というこの繰り返しによって、物事は運動、成長、発展するということです。
例1、科学の発展は弁証法の運動の典型です。
具体的な事例で言えば、ニュートンの絶対時間絶対空間というテーゼに、それを反証(アンチ)するテーゼ「光速度不変の原理」をぶつけることによって、アインシュタインの特殊相対性理論というジンテーゼが生じます。
例2、少年の成長物語でよくありますが、ある夏休み、ひょんなことから校内一のガリ勉と不良が友人になります。
自己(テーゼ)の生き方を否定する友人(アンチテーゼ)との関りの中で、ガリ勉は外に向かって生きることを学び、不良は内を反省する生き方を学び、夏休みが終わるころには、互いが対立するものの力を統合し、以前より成長した新たな自分(ジンテーゼ)になっています。
モンタージュとは何か
(分かる人は読み飛ばして構いません)
モンタージュをひと言でいえば「編集」です。
昔の刑事ドラマによくありますが、異なる顔写真のパーツを切り貼りして組み立てた犯人の顔のように、部分を再構築して新たな全体をつくる作業です。
映画のモンタージュ理論において、エイゼンシュテイン以外で有名なものとして、グリフィスとクレショフのものがあります。
グリフィスは、私たちがホームビデオを撮る時のようなシーン数=ショット数の古い方法(例、子供がプリンを食べるシーンで、始めから終わりまでただ撮り続けるだけ)を打ち壊し、ワンシーンを複数のショットで組み立て構成する編集(モンタージュ)をはじめます。
プリンのアップ画-子供の輝く目の画-スプーンを取る手の画-口に運ばれる一片のプリンの画-満足そうな子供の笑みの画-…、というように、複数のショットでひとつのシーンを構成することによって、ドラマティックな効果をあげることができます。
またグリフィスは、シーンだけでなく、物語全体の編集(モンタージュ)である、いわゆるクロスカッティングの創始者でもあります。
異なる時代や場所の物語を分割し、交互につなげ交差させ、物語を全体的に演出するような方法です。
例えば、ボクサーAとボクサーBがリングで出会うまでの過程(ドラマ)を交互に写し、つなげ、クライマックスでついに闘う、みたいな演出です。
クレショフは編集(モンタージュ)によっていかに物事の意味が発信者の恣意によって作り出されるか(受信者に受け取られるか)を、心理学的な実験によって明らかにした人です。
例えば、Aの画像(男性の真顔)の後に、B(テーブルの上の食べ物)、C(棺桶の遺体)、D(ベッドの上の女性)の三つの画像いずれかをつなげる編集をします。
すると被験者(鑑賞者)はA-Bでは男性は空腹な顔をしていたと言い、A-Cでは悲しそうな顔をしていたと言い、A-Dではスケベな顔をしていたと言います。
たとえ同じ素材を使っても、編集による前後の入れ替えなどによって、意味を真逆にすることは容易です。
以上を踏まえた上で、エイゼンシュテインの言う映画の弁証法というものの理想がどういうものであるかを、比較を通して簡単に解説します。
エイゼンシュテインの弁証法
まず、エイゼンシュテインの弁証法というものは、あくまでも表現として新しい可能性(新しい次元の世界)を開くためのものであり、運動、成長、発展といった構築的な概念ではありません。
日本文化に造詣の深いエイゼンシュテインは、それを日本の漢字や俳句によって説明します。
もともと漢字は象形文字(絵文字)だったわけですが、その単純な絵文字が組み合わされる(モンタージュされる)ことによって、まったくあたらしい意味が生じます。
例えば、「日」という漢字は太陽を模写的に表し、「月」という漢字はお月様を模写的に表す絵文字です。
しかし、これらが組み合わされると、違う次元の意味、観念的な意味としての「明(メイ・あかり)」へと飛躍的に変化します。
重要なことはこの際、元のものとは根本的に異なる次元のものへと変化していることです。
単なる足し算ではない異次元への変化(ここでは具体から抽象概念へ)、質的に飛躍する弁証法です。
俳句(詩)における効果というものもこれと同様の変化によって生じています。
有名な芭蕉の「古池や 蛙とび込む 水の音」の句の場合、私たちが感じているのは単に「古池」と「カエルのダイブ」と「水音」という模写像の足し算としての場面描写を、言語を通して認知しているのではなく、その組み合わせ(モンタージュ)の妙によって、何か特殊なものを感得しています。
散文的な場面描写の単なる説明とは違う、異質の次元(心理的、情緒的、美的なもの)へと飛躍し、感じ入っているのです。
エイゼンシュテインのモンタージュ
グリフィスの場合もクレショフの場合も、そのモンタージュにおいて、部分はあくまでも全体のための部分です。
精巧な機械時計の部品や建築物のレンガのように、あらかじめ計算された全体にそってはめこまれた部分です。
その効果というものは、設計図の段階で予測可能なものです。
それはロシア皇帝という支配者の思惑(設計図)のために民(部分)が存在するようなヒエラルキー構造に似ており、便宜的にこれを「君主制モデル」と名付けておきます。
君主制モデルにおいて部分は、階層秩序に従う区別による価値づけによって機能する要素となります。
それに対し、エイゼンシュテインのモンタージュの効果(質的な飛躍)というものは、設計図の段階では把握できず、実際にその組み合わせが現れるまでは感得不能だということです。
例えば、ひとつのメロディーが鳴るだけ(あるいは交代で鳴るだけ)であれば、その効果は私でも事前に把握できますが、複数の異なるメロディーが同時に鳴る際に生じる弁証法的な効果を、一般人が予測することはまず不可能です。
昇り階段と下り階段が同時に総合されたエッシャーの絵の眩暈は、実際にそれを見るまでは決して生じえないように。
それは民(部分)が主役であり、部分の共演によって真の全体が開示される、帝政ロシアとは質的に異なる共同体の世界であり、これを「民主制モデル」と名付けておきます。
民主制モデルにおいては、あくまでもそれぞれの部分が平等な重要さをもつ要素として機能します。
ロミオの独白も、群衆のざわめきも、等価であり、共演的に、決して切り離せないあるひとつの表現の要素として、それぞれが機能しているのです。