危機における五つの心得(自分用)

人生/一般

(※本稿は2020年4月緊急事態宣言発令時に書かれたものです。)

 

危機において自分を戒めるための五つの心がけです。
自分自身に言い聞かせるために整理したものです。

誰かを批判する前に自分を批判(自己反省)する

他人の責任を問う前に、先ず自分の責任を果たさなければ意味がありません。

社会の構成員は皆それぞれが役割を持ち、その実行において社会は上手く運行するものであり、よく社会を船、私たちを船員と喩えられます。
船が難破しそうになった時、乗組員それぞれが互いのせいにしあっている限り、何の改善の可能性もないまま、終わりへと突き進むだけです。
海図を読む奴が悪い、オールを漕ぐ奴が悪い、舵を切る奴が悪い、船を作った奴が悪い、等々、罵り合っているうちに、状況はただ悪化し、船は海の藻屑と消えることになります。

これを解決するのは、先ず各成員が他人のせいにすることを止め、問題を自分の責任として引き受け、自分の社会の位置(役割)において、ベストを尽くすことしかありません。
各々がそうすることによって、問題を解決する可能性がはじめて生まれてきます。
他人への批判はそれからです。
他人を批判する権利は、自分の責任を果たすために努力している者のみに与えられます。
各人が各人の責任を果たそうとしながらも、上手くいっていない時に、第三者的な立場から評価し、限界や問題を指摘することが、正当な批判です。
批判は実質的に改善を生むためのいわば助言であり、何の有益性も生まない悪口や攻撃を指すのではありません。

そうでなければ、批判はただの自己の責任逃れと言い訳、および問題解決の努力の回避にしかなりません。
状況を他人のせいにし、批判だけしていれば、自分は責任を負わずにすみ、具体的な努力をせず、自己欺瞞的な満足(なんかやってる感)がえられます。
駄目な親や教師は、自分の教育力の無能と怠慢を、子供の努力不足のせいにすることによって、自己の責任を逃れようとします。
駄目な子は自分の勉強不足による無能を、親の遺伝や家庭の貧しさや教師の教え方のせいにして、自己の責任を回避しようとします。

親や教師は子の教育という責任を全うしない限り、子を批判する権利はなく、子は勉強もせずに自分の無知を親や教師のせいにする権利はありません。
市民(有権者)は選挙にも行かずに社会状況を政治家の責任にする権利はなく、政治家は可能な限りの努力を尽くさずに自己責任論の名において市民に責任を押し付けることは許されません。

 

未来は現在が作る

一般的に時間は、「未知の未来があり、それが現在に到来し、やがて過去になり消えていく」という直線的な時間感覚で捉えられています。
未来には何が待ち受けているか分からない、そして過去は消え去る、というわけです。
しかし、ある思想家は言います。
過去は未来とつながっており、過去は決して消え去らずに、ぐるっと未来へと一周してつながり、また現在へと還ってくる、と。

例えば、現在において人間が資源を湯水のように浪費すれば、それが因果的にぐるりと未来へ円環し、当然、後々やってくる未来は、資源の枯渇した地獄のような未来です。
反対に現在において工夫し大切に使えば、それは廻り廻り、豊かな未来がやってきます。

「とんでもない世の中になった!」と年配の方はよく言いますが、そのとんでもない未来を生み出したのは、過去の自分たちです。
例えば、人口曲線は最も確実に予想できる類のものです。
超高齢化社会の問題が自分たちを苦しめたとしても、それは自分たちが選び取ってきた未来が到来しただけにすぎません。
数十年前から自分たちが準備してきたこの自業自得の世界を、まるで未来からやってきた未知の危機と捉えれば、自分たちの今までの無責任な行動に対し見て見ぬ振りすることができます。

それは今現在、世の中を動かしている人たちも同じです。
私たちが現在においてどう行動するかによって、未来が作られていきます。
「未来にどんな危険が待ち受けているか分からない。けれど俺は強く生きる!」と言うようなヒーローは、ただカッコつけたいだけの似非ヒーローです。
本当のヒーローは、ただどうすれば現在の行動(アクション)が実りある未来へとつながるかと、自分の役割と責任において黙々と努力している人たちです。
未来の危機を待ち受ける受動的(無責任)な人間ではなく、自分たちの手で未来を創っていこうとする能動的な人々です。

 

危機の時くらいは、本質(中身)を取り戻す

現代は超競争社会と言われます。
競争社会において重視されるのは結果のみです。
当然、結果のみを重視する社会は手段を問いません。
中身(見えないもの、心や本質や過程)は外見(見える結果)で判断されることになります。

「嘘は貫き通せば真実になる」「正しいものが勝つのではなく勝ったものが正しい」「結果がすべて」「やったもの勝ち」などというプラグマティックな言動が横行します。
市場を見渡せば、商品の価値は中身ではなく、金や権力で買われた評価や心理学を援用した広告の詐術によって決定され、中身のない商品が売り上げ上位を占め、本物は駆逐されます。
人間においても、優しいフリ、真面目なフリ、強いフリ、賢いフリをする者が、本当に優しく、強く、賢く、真面目な人間に打ち勝ち、社会の中心を占めることになります。
政治においても同様、重要なのはハッタリとパフォーマンスと手段を問わない強引な行使力のみとなり、政治は本質を見失い、外見とは裏腹に地力と中身を失っていきます。

別にそれは悪いことではありません。
それが人間の社会です。
ただ、問題は、ハッタリやレトリックは人間には通用しても、ウイルスや自然の諸力(災害など)には全く通用しないことです。
ウイルスは、ハリボテの獅子の面をかぶった強面にもひるむことなく問答無用で食い殺していきますが、本当に賢くきちんと準備する少年は避けて通ります。
対人間ではない危機に際しては、本質的な実力と地道な努力以外は何の価値もありません。
だから、そういう危機下においてくらいは、嘘やハッタリで勝負することは止めて、誠実に実力で闘わなければ、勝ち目はありません。

 

正しい情報などどこにもない

情報というものは常に発信者の立場からのいち見解にすぎず、客観的な事実ではありません。
例えば、夫婦喧嘩において両者の意見(事実の解釈)が全く異なることはよくあることです。
第三者であっても、それが夫寄りにいるか妻寄りにいるかによって、その事件の解釈は異なりますし、彼らとは何の関係もない客観的な裁定者を連れてきたとしても、その人の立場や過去の経験によって、その事実はその人自身の都合のよいように解釈されます。
それは政治家であれ、新聞やテレビニュースであれ、医者や科学者のような専門家集団でも変わらず、自身の都合や利益に合わせて認知し編集された事実の変形を発信しているにすぎません。

情報の受け手は、その情報が誰により、どのような状況で、どのような目的で発信されているかをよく吟味し、精査した上で受け取らねばなりません。
政治家の見え透いた詭弁、編集方針に合わせた情報しか発信しない新聞、客観的に見えながら自己陶酔のために悲劇を煽ろうとする専門家、利益のために平気でデマを流す商売人まで。
もちろんこれは受け手も例外ではなく、自分の都合のよい情報のみを受け取り、都合に合わせて変形した上で受容します。
私たちが事実だと思っている情報は、そういう曖昧なものであり、それはいくら客観的な目で精査してもし足りないものです。

例えば、誰かが誰かの陰口を言う時、その情報を信じるべきでしょうか。
陰口を言うようなずるく感情的な人間が、事実を正確に伝えられるとは到底思えません。
陰口を発信する者がどういう人間であり、どういう状況にあるかを吟味することによって、はじめてその情報の正誤が見えてきます。
それは発信者の嫉妬によって捻じ曲げられた誤った情報かもしれません。

 

恐怖は危険予知以外には役に立たない

「痛み」が身体に危険を知らせる機能を持つように、「恐怖」は私の心に危険を知らせてくれる機能を持ちます。
人が血のついた包丁や、てんぷら鍋に引火した火を見て恐怖するのは、それが近い未来の自分の危険(死)を予測させるからです。

ですので、恐れというものは決して悪いものではありません。
問題は、「恐れ」という未来の予測(危険な想像)に呑み込まれ、現在が蝕まれることにあります。
てんぷら鍋に引火した火を恐れるあまり、思考が停止し、足がすくんで身動きが取れなくなれば、命にかかわります。

恐れに対して先ず必要なことは、準備であり、備えが堅固であればあるほど、恐れは弱くなっていきます。
そして、第二に、冷静に分析し、恐れの予測を現実に沿ったものとすることです。
明日の予防注射に怯える子供は、その時の状況を想像し、膨らませ、客観的にはしっぺ遊び以下の痛みしかないはずの注射が、逃げ出したくなるほどの恐怖に変わります。
恐れの予測が、現実離れしたものになれば、悪い想像は膨れ上がり、手に負えなくなります。
現実的な恐れの可能性のみに注意を向けることで、無意味な恐れを排除し、恐れを最小限に抑えることができます。

現実認識によって、恐れの限界をきちんと確定し、それに対する対策と準備をすれば、もう恐れる必要はありません。
なぜなら、恐れというものは、ただの未来予測(想像)であり、現実に恐れの状況(あるいはその時)が到来すれば、即、それは消え去るからです。
恐れていた状況そのものに突入すれば、ただその状況に対し一生懸命になっているだけであり、もう、恐れなどというものは、微塵も存在しません。
化物を恐れるのは出会うまでであって、出会ってしまえば恐れなど吹っ飛び、ただ闘うことや逃げることに必死になるだけです。

どんな職場であれ、経験豊かなベテランは、落ち着いています。
新人のように、失敗やトラブルを恐れて、ビクつくことも焦ることもなく、どんな状況でも落ち着いて的確に仕事をこなします。
彼らも新人の頃は恐れでいっぱいでしたが、恐れていようがいまいが、その状況になれば、結局ただ適切に作業をこなすしかないことを、経験を通して知っているからです。
恐れと言うものが、危険予知のため以外には何の役にも立たず、現実に直面すればスッと消え去る想像の産物でしかないことを知っているのです。

危険予知として最初に恐がることは有益なのですが、いつまでも恐がっていることは何の意味もありません。
落ち着いて恐れつつ、的確に対処しつつ、それでいて笑顔(余裕)を失わないようにすべきであり、「知性において悲観主義者に、意志(行動)において楽観主義者であれ」という名言に従うものとなるでしょう。