※本書において理論的に重要な章のみ取り上げます。
第二章、デマはなぜ流れるのか
二つの基本条件
デマが生じる際には、二つの基本となる条件があります。
A、そのデマの主題(話題)が話し手及び聞き手にとって何らかの重要さを持っていること。
例えば、第二次大戦時にデマが横行した一因は、その話題のひとつひとつが市民各々の生存に関わる重要なものであることが多かったことです。
B、その主題の真実性が、何らかの理由によって隠され、曖昧な状態にあること。
例えば、その主題に関するニュースが全くない、不完全である、矛盾している、信頼できない、その情報の内容が人を感情的にする性質のもので不信を惹起する時、などです。
戦時における情報の制限、情報の混乱、情報の機密性、情報戦による意図的歪曲、情報の感情的性質などは、まさにこの典型の状態にあると言えます。
デマの流布量はこのA(重要さ)とB(曖昧さ)の積(A×B)に比例します。
どちらか一方がゼロであれば、デマは生じません。
いかに情報が曖昧でも、人々にとって重要でない無関心な話題であればデマは生じようがありませんし、事実が完全に明白な事柄に関しても同様にデマの生じる余地はありません。
その話題に関する情報をたくさん持っており、はっきりと事実を知る者は、知らない者よりはるかにデマに乗る確率は減ります。
例えば、会社の経営に関してのデマに乗るのは実態をあまり知らない平社員であり、上層部ではありません。
もちろんこの基本形があてはまらない事例もあります。
デマの流布に関する厳重な禁制が布かれている、相互コミュニケーションが断たれている、デマそのものに関する洞察を持ちデマに乗らない場合、などです。
この三つ目の「デマそのものに関する洞察」とは、現在でいうメディアリテラシーのことです。
デマに関する法則を知り、己に対する洞察を持てば、デマの作用を衰えさせることができます。
「デマを意識している人々は、デマの犠牲になりにくい」という事実は、特にデマの犠牲になりやすい若い人々が自分の身を守るための強い力となります。
勿論、これは懐疑主義者に成れと言うことではなく、健全な懐疑(警戒心)を持て、ということです。
デマの動機
人々にとって重要だと判断される話題は、デマの動機となるそれら人々の欲望を反映しています。
デマの原動力となるものは、人間の諸々の欲求や欲望(及びそれに伴う感情)であり、例えば、危機におけるデマは死への恐怖、ゴシップやスキャンダルは性的興味、不気味な噂や怪談話は不安、悪口や中傷は嫌悪などを主な動力としています。
デマを広める人々は、自身の欲望から生じる緊張を緩和し、正当化し、言い訳となるような話題を探し求めています。
デマは、欲望を向ける対象に対し攻撃を加えることで心の底にある緊張(欲求不満状態)を和らげ、デマを語ることで自分自身の状態を正当化し、その内容を自分自身と他人に対しての説明とします。
自己の情動の緊張緩和と合理化(後述)が、個人におけるデマの機能です。
勿論、こういう情動的な圧力により強制される合理化以前に、人間はあいまいな状態を嫌いそれを合理化し説明しようとする一般的な傾向(探究心や好奇心の元)もあります。
以上のように、デマには三つの力が働いています。
緊張した心を鎮めるための言葉によるはけ口、自身の内にある受け入れがたい感情や欲望の正当化と自己弁護、曖昧なものを明確にしたいという知的な欲求。
デマを作る投射
周囲の現実の解釈が、その人自身の内面の反映である時、それを心理学では「投射」と呼びます。
その時、世界の事物は客観性を離れ、主観を擁護するための証拠となります。
例えば、嘘つきの人が自分自身でその内面を認めたくない時、それを外(主に他人)に投射(projection)し、他人=嘘つきというように世界を解釈することによって、自己を弁護するような時などです。
夢の中では誰でも投射を行なっていますが、それは目覚めて客観的な視点で反省されるまで、自身はその事実を知ることができません。
それは白日の空想においても同様です。
デマと空想は似たものであり、誰かから聞いた話が、私にとって都合のよい(私の内面を擁護する)外面を持っていれば、私はそれを現実として信じ受け容れ、さらに誰かに伝達(説明)しようとします。
自分の心の反映となる面のみを真実として受け容れるのです。
噂が人から人へ伝わり最初の話題とは全く違うものとなる時、日本では「尾ひれはひれが付く」と言いますが、この尾ひれの部分は、話し手及び聞き手が自己の内面(無意識の願望など)を反映(投射)することによって作られるものです。
例えば、単純な傷害事件のニュースが、性的暴行を含んだ事件として伝聞されることがよくありますが、それは噂を広める人たちの内面の性的願望が「投射」された結果です。
自己の内面について自覚的・批判的で素直に反省できる人は、デマに乗りにくいという実験結果があります。
デマの成り立ち
冒頭に、デマの基本条件として、「重要さ」と「曖昧さ」というものを挙げましたが、これは投射が生ずるための条件だということです。
環境(世界)の認識及び解釈に対し主観的な感情が与える歪みは、重要さと曖昧さの結びついた(積の)効果において生ずるものです。
投射は無条件の傾向ではないのです。
人は何か重要なものを強く欲する時、認識を自分の主観に合わせて歪めますし、人は曖昧なものを前にする時、同様に主観に合わせてそれを解釈し補おうとします(ロールシャッハテストはその典型)。
また、情動的な欲求だけではなく、探究心や知識欲そのものがデマの動機となることも述べましたが、神話や伝説などにある原始的な科学の意味合いを含むもの(例、地震の原因は大なまず)は、そういう知的な欲求、つまり「意味を知ろうとする努力」が生じさせた空想(デマ)であるわけです。
以上、要点をまとめると、こうなります。
デマは、それを伝聞する人々の関心に強く訴え、障壁のない同質的な社会の中を伝播していきます。
人々の関心(欲望)はデマを強く支配(支持)し、それは人々の内面を説明し、意味付け、正当化するものとなります。
人々の関心とデマは密接につながり、デマとはその実、主観的な情動の投射として考えることができます。
その他、副次的なデマの流れる理由
話題の内容の重要性とは無関係な動機も存在します。
それはデマそのものを志向する類のものです。
「僕、とっておきの秘密を知ってるんだよ!」と、少年がよく使う言葉に表れています。
それは、誰も知らないことを知っているという選民意識、話し手になるという優越感、特別なお話によって他人を驚かせ喜ばせることの快感、暇つぶしのための無意味な井戸端会議など、デマがためのデマという性質をもつものです。
また、大衆が大事件や劇的な結末を期待し、お祭り騒ぎ的な熱狂を求める時などにも、デマはなかば競争的に増大していきます。
第三章、証言と記憶
証言の歪み
ドイツの心理学者ウィリアム・シュテルンは、「証言」に関しての心理学実験において、観察者の報告内容は、様々な要因に影響を受けることを発見しました。
これは主に刑事訴訟上の証言、供述の信憑性に関しての研究です。
実験内容は、被験者にある出来事を見せた後、それに関して詳細に報告させるというものです。
以下、その特徴を羅列していきます。
・主観に基づく認知の歪みや見落としは、はじめの出来事の観察段階からすでに見られ、さらに時間の経過と共にその報告の正確さは失われていきます。
・報告の仕方、被験者に自由に語らせるか、尋ね問う形で被験者に語らせるか、などによっても、その内容は大きく変化します。
自由に語る場合、被検者は、その出来事から正確に記憶している事柄だけに限って報告します。
尋問による場合、被検者は、明確な記憶の外のぼんやりとした事柄まで勝手に補い、はっきりと報告することになります。
ぼんやりとしている分、尋問者の問い方やほのめかしによって、報告は誘導されやすくなります。
・報告する出来事が、被験者のもつ過去の経験と似たものである時、それらは入り混じって、正確さをもたなくなります。
これは人間の記憶においても同様に、ある時の出来事は別の時に起きた出来事と、ある種の類似によってまとめられているだけで、その内容は混在しています。
多くの記憶において時間枠は曖昧であり、私たちはぼんやりとした時相(時制)でしか把握していません。
例えば、毎年夏休みにディズニーランドに行く子供に、昨年のディズニーランドの経験の記憶を報告させると、一昨年以前の記憶と混在した内容で報告することになります。
・出来事が刺激的なものである場合は、誇張して歪められやすく、既知の出来事である場合は、自分のマス目に合わせて解釈しなおされます。
・被験者の知性や言語能力や表現の慣習によって、報告の内容は大きく異なってきます。
人間は豊富な情報で満ちた現実を、無限のボキャブラリーで言表するわけにはいかず、決まり文句や使い勝手のいい限られた言葉によって不完全に表現するだけです。
豊富で混沌とした記憶のイメージは、言表による変形によってしか明確にすることができません。
例えば、語彙が少なく表現力の低い(要は上手く言えない)子供の供述は、非常に不正確で、かつ暗示や誘導を受けやすく、証言としての信頼性は少なくなります。
また、言表の習慣は個々人によってかなり異なっており、主観的な評価や説明を混在させながら報告する者もいれば、関係性の見え難い事柄を支離滅裂に並べ立てるだけの者もいます。
これらの研究は、出来事の証言には大きな問題があることを示唆します。
デマというものが多くの証言者を伝達して生じるものである以上、その内容が著しく歪められた信用のおけないものであることは、ある種の必然でもあります。
記憶の歪み
証言を生む過程は、知覚→記憶→報告の三段階です。
この三つは密接に絡み合っており、どれかを切り離すことはできません。
「知覚」はそれに関連する過去の経験「記憶」に影響を受け、また「報告」という目的によっても影響を受けます。
前者については先にも述べましたが、後者の例としては、単なる観光と、後の報告を目的とした取材旅行では、知覚されるものが全く異なるという事実を思い浮かべてみてください。
例えば、笑いを取るためのネタを目的とする芸人は、面白おかしいもののみを知覚し、感動を与えるための素材を目的とする映画監督は、美しいもののみを知覚します。
同様に「記憶」も「知覚」と「報告」を前提とし、「報告」は当然「知覚」と「記憶」を前提とします。
また、これらは先に述べたように、報告や記憶(心に留める)の際に用いられる、語彙や言表の習慣によっても規定されます。
最終的に「報告」は、その前段階の要素(知覚、記憶)とそれが行われる際の社会的状況との相関の中で生成します。
この複雑な過程を通って、単なる出来事は証言へと変貌します。
この過程は、カメラのレンズのようにクリアな知覚を通して、記憶という感覚のフィルムに正確に焼き付けられ、必要に応じて外部に映写(報告)されるという、一般的に考えられるような単純なモデルではありません。
記憶は極めて恣意的構成的で創造的なものであり、知覚も報告も、様々な要素のフィルターによって歪められたものだということです。
人間はすべての経験を、自己の有益性に照らし、明確で合理的で意味のあるものとして分類し、それを心の中の図式に配置することによって自らの世界観を構築し、それにより円滑な生活を送ることができます。
人間は出来事に意味を与えようと努める性質を持ち、あらゆる認識の過程は、これによって規定されているのです。
仮にそれが第三者から見れば空想的で誤ったものであったとしても、本人にとってその記憶の意味は、出来事から合理的で経済的な効果を引き出そうとした結果、生じたものなのです。
社会的記憶の歪みとしてのデマ
個人の知覚や記憶においては、参照となる出来事が隣接してあるため、変形の程度はある枠内にとどまります。
しかし、それが伝聞となると、比較すべき対象も照合すべき印象もないため、徐々に変形に制限がなくなっていきます。
例えば、フクロウの絵の伝達実験において、リレーのアンカーとなる被験者は、猫の絵を描くことになりました。
もし、照合すべき出来事(フクロウの絵)が横にあれば、この変形は決して猫になるほど極端なものになることはなかったはずです。
社会の成員が同質的で、同じような欲望や先入観を所有している場合は、歪みは極めて堅固なものとなり安定し、しばしば非常に説得力のあるものとなります。
社会共通の記憶として共有され、それは個人の記憶よりも単純で標準化され、社会一般の価値観を反映しているような通俗的なものとなります。
ここにおいてデマは完成するのです。
第八章、歪みの基本形
三つの歪み
デマの流布に関する様々な実験の結果、事実は三つの方向に歪められることが分かりました。
それは、平均化、強調、同化の三つです。
平均化
デマは引き継がれるにしたがい、その内容は短くなり、要約され、平明になります。
この過程で、出来事の本質的な理解に必要な細部が省かれてしまうわけですが、これは彼ら(デマを広める人)の記憶力や編集力の低さの問題ではなく、なかば計画的にそうされるということです。
彼らが要約する際の要(かなめ)とするものは、事実の本質ではなく、彼らの内面にある願望や考えです。
その内面に都合のよいものは残され、不都合なものは省かれ、彼らにとって好都合な編集が行われるだけで、それは事実に関しての本質的な要約とはならないのです。
強調
ある部分が省かれれば、当然、残された部分が重視され強調されることになります。
選ばれた部分はより誇張され、劇的な性質を帯び、真実のものであるという主張を強めます。
強調される部分は、理由付けや合理化によって、できるだけ真実なものと見えるよう意味付けられ正当化されるのです。
同化
これは、外界の事物を自分の心的枠組みに同一化させるような形で取り込むことです。
自己の内的な欲求や関心に合わせて外的事実を変形し、その同一化された事実は、今度は外から内面を支え保証するものとして機能するのです。
これら三つのものは、互いが互いの存在条件となっており、切り離せないひとつのものの別面です。
要するに、これは先にも述べた人間の特質「意味を知ろうとする努力」の戯画的に誇張された反映だということです。
人間の普遍的特性としての同化
個人の記憶が時間経過によって被る変化を追う研究実験において明らかになったことは、記憶の再現性は一般に考えられるように時間の経過と共に徐々に消えていくのではなく、むしろより完全な方向へ向かい、単純明快で意味のある形に変化していくということでした。
この完全化へ向かわせるものが、先に挙げた三つの要素(単純化、強調化、同一化)です。
ある出来事の記憶というものは、時間経過と共に、元のものよりも、よりもっともらしく、いかにもそうであるかのようなものとして変化するのが普通です。
例えば、ある鋭角三角形の図形の記憶は、時間経過と共にその鋭角が鋭く強調された、より鋭角三角形らしい図形に変化します。
この変化において重要になってくるものが、私たちの内にある観念(いわば世界観)です。
例えば、ひょうたん図形の記憶再生実験においては、それぞれの被験者がその図形に持つイメージによって、時間と共にその記憶はそのイメージにそっくりな図形へと変化していきます。
ひょうたん型を「バイオリンのような形」として捉えた被験者の記憶が描く図形はどんどんバイオリン形に近付いていき、ひょうたん型を「マネキンの胴体のような形」として捉えた被験者の記憶が描く図形はどんどん人体形に近付いていきます。
ある未知の出来事を、自分の経験した何かに似たものとしてレッテルを貼る連想と名付けの力は、私たちの記憶を保持するために非常に重要なつなぎとめ機能を果たしています。
この過程で行われるものが先に挙げた「同化」です。
そしてこの「同化」は、第二章で述べた「投射」と類同的な関係にあります。
人間のあらゆる知覚も記憶も、自身の内に持つ言葉や文化や過去の経験によって方向付けと枠組みを与えられた構成的なものであるということです。
既知のものと関係付けて物事を把握するいわゆる「レッテル貼り」は、人間の認知において必然的なものであり、それが極端に偏ったり、柔軟さを欠いたり、根拠のない優劣が与えられたりする時に、偏見や差別に変化するのです。
それはデマが人間の本質的特性(意味を知ろうとする努力)の奇形化した誇張であるのと同じです。
まとめ
人間の生は外的世界を主観化する過程であり、それは生きるために人間が環境に適応する唯一の方法です。
自己が生きる上で必要な価値付けに従って事物を知覚し、対象は「私」というものの構成要素として組み込まれ、位置づけられます。
そしてその対象は、知的、情緒的性質のものとして、私に捉えられ、他者に対し表現あるいは説明されます。
心理学的に言えば、人間はすべて芸術家のように、創作者でありかつ表現者であるのです。
私たちが日常において、目の前の「猫」をどう知覚(主観化)し、どう解釈し、どう伝える(表現)かの過程は、芸術家の活動と程度の差はあれ同じものです。
しかし、この人間の生に必須の過程は、対象やモチーフ、直接的な感覚、一時的な記憶などの参照となる根拠を持たない時、極めて歪んだものとなります。
又聞きのリレーの中で、その主観化と表現は行き過ぎたものとなり、誇張され、変形され、潤色され、編集され、公約数的に通俗(ステレオタイプ)化されたそれは、デマとして大きく成長し、強大な力を持つようになります。
第九章、社会におけるデマ
デマと伝説
デマは社会的現象であり、平和的なものであれ暴力的なものであれ、その期間が長かろうが短かろうが、人々をつなぎ、社会における大小様々なムーブメントを生み出します。
特にその中で持続的な有用性を持ち、永い間影響力を及ぼしつづける固定したものを、私たちは「伝説」と呼びます。
伝説は様々な変形を経て、歴史の中で生き残り、もうそれ以上変わることのないほど安定した、特別な伝聞です。
日常の欲求を一時的に充たすだけのデマとの違いは、伝説は時間を経ても変わることなく人間の本質的な欲求を反映する内容のものであるということです。
例えば、オイディプス王の神話が二千年以上生き続けるのは、それが今なお私たちの欲求に呼応し、重要な意味を持つ内容を扱うからです。
その主題が人間の普遍を描く時、人間の間で受け継がれ、人間にとって有効な世界の解釈の枠組みを提供し、聞き手に安心感を与え、事物の存在理由を説明します。
デマというものは、ニュース記事と同様に、形としては客観的な事実命題の叙述のような体裁をしていますが、実質的には価値判断の詩的な間接表現です。
「ユダヤ人が経済界を支配している」という噂を伝える人は、その事実を伝えたいのではなく、「ユダヤ人は貪欲で危険だ」という個人の欲望を反映した価値判断を、共有させようとしているのです。
神話や伝説が事実命題としては誤りであったとしても、それは詩的(間接的)に文化社会的な価値判断の再生産として機能しているのであり、その真偽が問われているのではないのです。
同様に、デマにおいても重視されるのはその真偽ではなく、評価的であることであり、その目的に沿ったものだけが伝聞されます。
デマにおける真偽という体裁は、先ず価値判断という目的ありきで、事後的に整えられるだけのものです。
デマにせよ伝説にせよ、そこにおいて語られる見かけの叙述内容を判断するのではなく、その裏にある評価的なものを捉えなければなりません。
デマを語る人は、事実の叙述という形式によって内的な価値判断を間接的(詩的)に表現しようとしているのですが、聞き手はそれを単純な事実命題として受け取り、事実と表現を取り違えてしまいます。
この自覚がなく、情報に対する適切な判断ができない時に、デマの諸問題が生じてくるのです。
デマと大衆
デマの主題に従い、それに応じる大衆のクラスが決定します。
例えば、食品の健康被害に関するデマでは主婦層が、株式ニュースに関するデマでは資本家や投資家層が、一般的な話題では大衆全体が、その構成員となります。
そのクラス中でもデマに乗りやすい部類の人と乗りにくい人が分かれます。
論理的な根拠をもとにしてはじめて物事を信じる習慣の付いた、批判的、主体的な人はデマに乗りませんが、何の根拠もなく感情的に物事を鵜呑みにする暗示にかかりやすいタイプの人はデマに乗りやすくなります。
暗示にかかりやすい第一の人は、普段の精神生活が貧しく、自ら考えるという訓練を持っていない無学な人が多くを占めます。
勿論、ここで問われているのは知識の量ではなく、自分の頭で考える批判的知性のことであり、知識の豊富な学者でもデマに乗る人は多数います。
暗示にかかりやすい第二の人は、常に前のめりに生きているような性急な心もちの人々です。
期待や予想を先取りしながら生きるこれらの人々の認知は、先ず目的ありきで、物事を歪めて判断しやすく、信じるための証拠は現実にはなく、それは自分の心の確証のためのものとなるのです。
そして、デマが広がる大きな理由として、これらデマに乗りやすい人々が互いに交渉を持ちやすい状態にあることです。
先の例でいえば、主婦の井戸端会議は食品デマを広げ、富裕層の社交クラブは金融デマの通路となります。
社交的な性格の人ほど、デマの伝達者になりやすく、彼らは自分の知識を価値あるものとみなし、それを伝えることは良いことだと考えています。
確かな知識を持つ人はデマに乗りにくいと以前述べましたが、デマの伝達者となる人が自負する知識は、それとは正反対の、曖昧で吟味のない興味本位の情報です。
彼らが新聞を沢山読むのは、深く事実を知るためではなく、ただ誰かに伝えるために読むのです。
必要とされるのは、事実の確証ではなく、社交の場での自分の価値です。
デマと新聞
デマは個々人のつながりだけでなく、新聞のような公的な方法で一気に拡散されることもあります。
無批判に物事を鵜呑みにする大衆の傾向につけ込み、権力者や編集者が意図的にデマを流すこともありますが、そういう言論の統制のない自由な国の報道でさえ、自分を真実だと思い込んでデマを流します。
そもそもニュース記事の選択の基準自体が恣意的であり、いかにその出来事が真実であろうとも、あくまで文脈全体を欠いた部分的なものであり、結局、編集者の編集方針(内的な価値)に偏向した意味付けのものとならざるを得ません。
報道は真実そのものではなく、デマよりは真実に近い準デマでしかありません。
例えば、「大学教授の九割が共産主義を教えている」という新聞の見出しにあるデマ性(事実を述べるように見せながら評価を述べている)を認識することができる人はごく少数です。
先にも述べたように、重要なのはその記事の事実性以上に、間接的に表現されている内的な価値判断です。
賢明な読者はこの両方(叙述と表現)を同時に読み解く必要があり、新聞記者や編集者などの発信者側もそれを自覚し、報道は事実そのものではなくすでに伝聞(中間者=メディア)であるということを常に意識しておかねばなりません。
そうでなければ、いかに善意によって事実を伝えようとしていても、デマを広げることになりかねません。
新聞記事の中にも少なからずデマの要素(強調や同化や平均化)が存在しますが、人間は活字化されたものを真実だと思いやすく、また新聞という公的な権威がある種の保証となるため、それが見えにくくなります。
例えば、「スーツを着た白人が地下鉄内での口論の末、作業服の黒人にナイフを突き付ける」という映像の伝聞実験において、その出来事を聞いた人の大半が、この事実を変形し「労働者の黒人がスーツの白人にナイフを突き付けた」と、真逆に捉え伝えてしまいます。
もちろん、誤った彼らは自分は間違いなく事実を捉え伝えていると本気で思い込んでいます。
事実に近い最初の伝聞者である人達ですらこの結果であれば、伝聞のまた伝聞である報道が歪むのは避けられないことです。
勿論、伝説とデマが違うように、デマとニュースの違いもあります。
ニュースは可能な限り一次的な証拠や基準(要は出来事そのもの)に近付くことを理想としていますが、デマにはその意識が全くありません。
一般的な大衆は新聞やラジオやテレビのニュースで見聞きすることは何でも信じてしまい、反対に、一度そのニュースの虚構性を知ってしまった人(騙された人)は慢性的な懐疑論者となり、報道をすべて宣伝や扇動として軽蔑するようになります。
これら二種の人は、先に述べた叙述と表現の取り違えと混同の症例となるような人々です。
報道に関わる者は、自己のデマ性を自覚し、可能な限り正確なニュースを届けることを心得なければ、いずれ誰も報道というものを信用しなくなってしまうでしょう。
報道を受け取る読者や視聴者は、事実と評価、叙述と表現をきちんと弁別する力(メディアリテラシー)を持たなければ、自らが知らず知らずのうちにデマの扇動者となってしまいます。
おわり
<読書案内>
翻訳書は岩波書店から出ている南博訳の『デマの心理学』のみです。