谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』

芸術/メディア

十一、

近代の歌舞伎において、昔のような女らしい女形が現れないと言われるのは、俳優の問題と言うより、近代的な明るい照明によるものとも思えます。
今と違い、昔の蝋燭やカンテラによって照らされた女形は、適度な暗さで男性的な強い線を覆い隠されていたはずだからです。
文楽の人形浄瑠璃は、明治になっても長らくランプを使っていたわけですが、それにより、人形特有の固い線や質感は柔らかくぼかされ、その女の実感は、むしろ今の女形よりも優っていたのではないかと想像します。

十二、

文楽の人形は、顔と手の先しかなく、あとは長い衣装に隠れています。
実のところ、昔の女というものも、襟から上と袖口から先だけで、残りは闇に隠れていたのだと思います。
中流階級以上の女は、めったに外出せず、昼も夜も家の奥の闇に五体を埋め、顔と手だけで存在を示していました。
当時の女の地味な衣装は、闇と顔をつなぐ闇の一部にすぎず、もしかしたらお歯黒というものは、口の中まで闇を詰めて、顔以外のすべてを闇に沈めようとしたものではないでしょうか。

極端に言って彼女たちには肉体がなかったとも言えます。
着物を着せるためだけの人形の棒状の胴体のように、凹凸のない平べったい身体が特徴であり、そういう人が今でも古いしきたりが残る家の老夫人や芸者などの中に時々います。

近代(西洋)は明朗で凹凸のはっきりした女性の肉体美を謳歌し、そういう幽鬼じみた女性の美しさを理解することはできないでしょう。
明朗にそれ自体として見れば、確かに彼女たちの身体は西洋的な身体に比べ醜いのかもしれません。
しかし、先にも述べたように、東洋人は何もない所に、陰影をかけることにより、美を創造するのです。
東洋人にとって、美は物体(実体)としてあるのではなく、物と物との関係性が生み出す陰影のあや、明暗(トーン)によるのです。
もし、それを明朗な光によって照らせば、その魔法は解け、白日の下の夜光珠のように、宝石としての魅力を失います。

十三、

当然、西洋にも電気やガスのない時代があったわけですが、彼らは私たちのような陰への傾向をあまり持ちません。
西洋人は闇を嫌い、陰を払い除け、明るくしようとする進歩的な気質があるのに対し、東洋人は己のおかれた境遇に満足し、現状に甘んじようとし、それに不満を言わず、仕方ないと諦め、かえってその状況なりの美を発見しようとします。
昔の白人による有色人種の排斥(差別)は徹底しており、どれほど薄まった混血児の肌の曇りも見逃しませんでした。
彼らは何でもピカピカに研き、部屋の中も出来るだけ明るく陰を作らないようにし、天井やの壁も白く塗り、庭は平けた芝生を好みます。
色に対してのそれぞれ感覚が、自然と嗜好の差異を生んだのだとしか思えません。

十四、

私たちの先祖は、明るい大地に仕切りを作って陰影の世界を創造し、その闇の奥に女人を籠らせ、黄色い顔を世界で一番白い顔に仕立て上げました。
闇の中の燈火にゆれて浮かぶ、剃り落とした眉と螺鈿の青の口紅とお歯黒で微笑む白い顔は、どんな白人の女の白さよりも白く見えます。
それはありふれた白ではなく、実在ではない白、光と闇の戯れが生じさせるその場限りのイリュージョンです。

十五、

[今を生きる私たちは、電灯に麻痺して、明るさの過剰が生み出す不便に対して無関心になっている様が語られます。]

十六、

私は、われわれが既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐のきを深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。(谷崎潤一郎著『陰翳礼讃』最終項より)

 

まとめ

タイトルにあるように、本書は陰の美しさを讃えることが目的です。
ここで言う陰とは、谷崎の考える日本の美の本質を指しています。
西洋の美意識を日と光、東洋(日本)の美意識を陰と闇と定義付けた上で、西洋近代化によって失われていく日本(陰)の美に対し、自覚的であろうと訴えるのです。
ニーチェの、太陽の神アポロン(理性、合理、明晰さの化身)的芸術と、酩酊の神ディオニソス(激情、不合理、混沌、陶酔)的芸術の対立に似ていますが、異なります(ちなみにディオニソスは西アジアから西欧に入った神です)。

谷崎の打ち出す対立軸は、だいたいこうなります。

「西洋」
明るさと明晰さを好み、努力によって汚れや闇を徹底的に排除しようとする進歩的な価値観を持ちます。
その明るさに照らされた、それぞれの存在は明確な輪郭と自立した価値を持ち、美も即物的になります。

「東洋(日本)」
陰と曖昧さを好み、環境をあるがままに受け入れる諦めの姿勢が特徴的で、汚れや闇はそのままに美的なものとして受容します。
暗く境界のはっきりしない曖昧さは存在の輪郭をぼかし、周囲との関係性の中にその価値を見出します。

勿論、これは近代化によって日本に侵入してきた「西洋」であり、谷崎がここで言う西洋とは、ギリシャ的な明るく合理的な美に限定されています。
例えば、ドイツのような陰鬱で魔術的な美(例、ゲーテのファウスト)などについては、まったく言及されません。

また、このステレオタイプ化された西洋と対決させるために持ち上げられる日本も、仏教的な暗く禅味ある渋いものに限定されており、明るさの中にある日本の美(例えば晴天に映える神社の極彩色の美)については無視されます。
三島由紀夫は世界で一番美しいものとして、神輿の下から見上げる空の青を挙げますが、そういう、明るく、ど派手で、躍動的な日本の美しさもあるはずなのですが(明るさの中にも美的陶酔はある)、西洋との対決姿勢と自分の芸術的立場を明確にするために、そういう可能性は排除されます。

 

おわり

 

<読書案内>

著作権が切れているので、青空文庫やamazonのkindleなどで無料で読めます(kindleは旧字にふり仮名がついていないので、やや読みにくいです)。
電子書籍が苦手な方は、中公文庫の『陰翳礼讃』をお読みください。