恐れの原理
「恐れ」の本質的あるいは原理的な意味を定義付けるとしたら、「未来に対するバッドな予測(バッドな未来の想像)」となるでしょう。
そういう意味での対義語は期待「未来に対するグッドな予測(グッドな未来の想像)」です。
「明日、台風上陸の恐れがある」と、お天気お姉さんが言う時、原理的な意味で「恐れ」という言葉が使われています。
感情としての恐れ(恐怖)も、これと同じです。
漫画家の永井豪は『デビルマン』において語ります。
人間が暗闇を「恐れる」のは、その先に得体の知れない何かが潜んでいると想像するからであると。
暗闇の中に入ると、そこに化け物がいて、自分を食べてしまうのではないか、という、まさに「未来に対するバッドな予測」です。
血のついた包丁や、てんぷら鍋に引火した火を見て恐怖するのは、それが近い未来の自分の死を予測させるからです。
恐れの問題点
恐れというものは決して悪いものではありません。
規模の大小はあれど、人は未来に向けて目的を立て進んでいかざるをえないものであり、期待(グッドな予測)も恐れ(バッドな予測)も、人生において必須のものです。
「台風上陸の恐れ」などというように、それは危険予知のための非常に重要な能力です。
問題は、「恐れ」という未来のバッドな想像に呑み込まれ、現在が蝕まれることにあります。
てんぷら鍋に引火した火を恐れるあまり、足がすくんで身動きが取れなくなれば、命にかかわります。
また、恐れによって一歩前へ踏み出せずにいれば、その分、私の人生の可能性はひとつずつ潰れていき、私は自分で暗闇(未来)に描き出した化け物(バッドな想像)に怯えながら、自分の殻に監禁され続け、自由と時間とチャンスを失うことになります。
では、恐れないためには、どうすればよいのでしょうか。
ネガティブな解決法
第一に、未来に何の期待も持たないことです。
「未来がバッドであろうがグッドであろうがどうでもいい。別に俺は明日死んだって何とも思わない」と言う人に、恐いものなんてありません。
バッドであろうがグッドであろうが、どうでもいいなら、そもそも期待も恐れも生じる余地がありません。
第二に、未来の想像を持たない、あるいは無知であることです。
幼な子は、血のついた包丁を見ても、恐れずに、きゃっきゃとそれをつかもうとします。
無知であり、赤い液体が何を意味しているのか分からず、また未来に対する想像力が欠如し、間もなくその所有者の殺人鬼がやって来るかも知れないという予測ができないからです。
「恐いもの知らず」と言われる人が、まさにこれです。
ただ知らないから、恐くないだけなのです。
しかし、普通に生きる以上、期待も知識も想像力も必須のものであり、それらを捨てることなどできません。
生産的な解決法
第三の方法は、恐れに対してしっかりと準備することです。
お天気お姉さんは、「強風で窓の割れる恐れの無いよう」しっかりと対策、準備しておくように呼びかけます。
「恐れ(の)無い」ために必要なことは、準備であり、備えが堅固であればあるほど、恐れは弱くなっていきます。
第四に、恐れる予測を現実に沿ったものとすることです。
明日の予防注射に怯える子供は、その時の状況を想像し、膨らませ、客観的にはしっぺ遊び以下の痛みしかないはずの注射が、逃げ出したくなるほどの恐怖に変わります。
バッドな予測が、現実離れしたものになれば、恐れの想像は膨れ上がり、手に負えなくなります。
現実的な恐れの可能性のみに注意を向けることで、無意味な恐れを排除し、恐れを最小限に抑えることができます。
キリスト教の「明日を思い煩うな」、仏教の「ありのままの今を生きる」という智慧も、この方法に似ています。
根本的な解決
第三、第四の方法は、生産的ではあっても、恐れを減ずる術であり、根本的な解決にはなりません。
しかし、よく考えて頂きたいのですが、恐れというものは、そもそも根本的に解決すべきものなのでしょうか。
現実認識によって、恐れの限界をきちんと確定し、それに対する策と準備をすれば、もうそれで良いのではないでしょうか。
なぜなら、恐れというものは、ただの未来予測(想像)であり、現実に恐れの状況(あるいはその時)が到来すれば、即、それは消え去るからです。
恐れていた状況そのものに突入すれば、ただその状況に対し一生懸命になっているだけであり、もう、恐れなどというものは、微塵も存在しません。
化物を恐れるのは出会うまでであって、出会ってしまえば恐れなど吹っ飛び、ただ闘うことや逃げることに必死になるだけです。
恐怖でキャーキャー言ってる臆病な女の子が、化け物と対峙したとたん、果敢に闘う戦士に豹変するという“あるある”は、カマトトとかではなく、本質的に恐怖がそういうものだからです。
人間は恐怖の対象と直結すると、むしろ開き直って(恐怖という想像から解放され)、勇敢に生きることができます。
どんな職場であれ、経験豊かなベテランは、落ち着いています。
新人のように、失敗やトラブルを恐れて、ビクつくことも焦ることもなく、どんな状況でも落ち着いて的確に仕事をこなします。
彼らも新人の頃は恐れでいっぱいでしたが、恐れていようがいまいが、その状況になれば、結局ただ適切に作業をこなすしかないことを、経験を通して知っているからです。
恐れと言うものが、危険予知のため以外には何の役にも立たず、現実に直面すればスッと消え去る想像の産物でしかないことを知っているのです。
例えば、私がまだ子供で自転車のりたてだった頃、公道に出ることを非常に恐れていました。
ブンブン走る車に轢かれるバッドな未来予測に、足がすくんでいたのです。
しかし、いったん自転車で公道に出ると、ただ運転に夢中で、その瞬間、恐れは消え去り、大人になった今の今まで、その恐れていたという事実すら忘れてしまっていました。
それと同様、私がいま、未来の老いや貧困や病気を恐れていたとしても、未来の自分はきっとそんなことも忘れ、その時の老いや病気や貧困に対処することで一生懸命になっているだけでしょう。
危険予知としての有益な恐怖、努力の邪魔をする無益な恐怖
危険予知として最初に恐がることは有益なのですが、いつまでも恐がっていることは何の意味もありません。
そんな暇があるのなら、バッドな未来の確率を減らすための具体的な努力をすべきなのです。
よくある映画のシーン、未曾有の危険が迫って、皆がそれを防ぐために必死で働いているのに、恐れでうずくまって何もしないでいるキャラクター(観客をイライラ、ハラハラさせるために用意された)がよくいます。
観客はそれに対し憤慨しながら、彼ら自身も実生活では同じように、いつも恐れに囚われているだけで、何もしようとはしないのです。
多くの場合、恐怖の出来事が生じた時の実害よりも、それが起こるまでの恐怖の思考の方が遥かに大きな害をもたらすのです。
例えば、小学生の頃の予防注射の実害は、輪ゴムで弾いた痛みより小さな些細なものですが、それへの恐怖の思考のために、彼はニ三日前からご飯の味が分からなくなり、遊びも楽しくなくなり、勉強も手につかず、一日を無駄にしてしまいます。
たかが輪ゴムの痛みのために、数日の生産性を無駄にするという大損害です。
恐怖に呑まれない人は、恐怖が生じた際の実害だけで済み、恐怖に呑まれる人は、それプラス恐怖の想像による何十倍もの実害を受けるのです。
スリや暴漢を恐れるという恐怖の思考によって、せっかくの海外旅行を楽しめない人は、むしろ行かない方が得(旅行代+時間分)なのです。
恐れること(危険予知)はよいのです。
ですが、せっかく恐れるなら、天気予報のクールなお姉さんが落ち着いて恐れつつ、的確に対処しつつ、それでいて笑顔でいられる(悲観的にならない)ように、スマートに恐れたいものです。
「知性において悲観主義者に、意志(行動)において楽観主義者であれ」という、ロマン・ロランの名言に従うものとなるでしょう。
おわり