<序章、時間意識と社会構造>
第一節、時間のニヒリズム
一般に私たちは死に対する恐怖、永遠の時間に対する短き生に虚無を感じています。
死あるがゆえの生の虚しさは、決して避けることの出来ない真理であると思われています。
しかし、世界中の様々な文化を比較社会学的に見渡すと、この虚無が、ある文化圏内、ある特定の時間意識(およびそこから必然的に帰結ずる社会形態)において生ずるものであることが見えてきます。
それは、我々の持つ広義の近代的理性の基盤となっている時間意識であり、その本質的特徴としては、以下の二点が挙げられます。
1、帰無していく不可逆性としての時間了解。
2、抽象的に無限化されていく時間関心。
絶望するためにはその前提となる希望を生じさせるものが必要であり、虚無を感じるためにはその前提となる何らかの有を生じさせるものが必要です。
時間に対する虚無感(時間のニヒリズム)は、何らかの特定の時間感覚を前提としているはずです。
必然的に虚無を招来するであろうこの二つの時間感覚を否定する異文化を参考にし、これを相対化していきます。
第二節、現在する過去(帰無しない時間)
ネイティブアメリカンのホピ族の文化では、私たちが「別の日」として捉える昨日や今日や明日は、同じ日の繰り返しとして見られます。
毎日同じ人が再訪しているように、毎日同じ日がやってきて、再訪者に変化が蓄積されるように、日々の変化はその日に蓄積されていきます。
過去は常に現在しているのであり、決して消え去り(帰無)はしません。
近代的な精神は、時間を無限の未来と過去へと続く整合的な直線として見ます。
この「直線的な時間」に対するアンチテーゼとして「円環的な時間」を立てたりもします。
しかし、どちらにせよ、この幾何学的な比喩は、ともに「時間は連続的に動いてゆく(帰無していく)」というひとつの先入観を前提としています。
しかし、私たちが実際に経験している時間には、何ら幾何学的なものは存在していません。
より根源的には繰り返し、メトロノームのように両極(昼/夜、夏/冬、生/死、等)間を往復する「振動する時間」によって捉えられるものです。
ここにおける過去とは、潜在する現在のことであり、私たちが冬になって過ぎ去った過去と捉える夏は、ただ舞台裏で待機しているだけであり、次の振動で戻ってくる再訪者です。
ここで私たちは疑問に思います。
「確かに昼夜や四季のような自然現象は繰り返す。が、人生は不可逆的であり、私が愛し死んだかけがえのない人は決して戻らない」と。
しかし、これは人間が人間のみに固執することからくる先入観です。
毎年咲くサクラも、毎日昇る太陽も、その存在に固執すれば、サクラは二度と同じ花として咲くことなく死んでいく一輪ごとにかけがえのない固有性をもち、太陽も人間同様エネルギーを消費し少しづつ老いています。
オーストラリア原住民の「チューリンガ」の文化は、この生死の再訪をつかさどります。
チューリンガは石や木で作られた楕円形の物体で、多くの場合、象徴記号が彫られています。
それは、ある一人の先祖の肉体を表し、生者に授けられ、その生まれ変わりの物的な証となります。
それは普段隠しておき、定期的に取り出し、祈ります。
ここにおいて生死は、同じ者の再訪であり、時間的に個我を超えたアイデンティティーを持ちます。
チューリンガにおいて、現在する過去が物的に示されているわけです。
これと同様、多くのアメリカ原住民において「土地(先祖の生きた証し)」は、このチューリンガのような作用(物的に現在化された過去)を持っており、開拓によってその原住民の土地が破壊されたり、追い出されることは、彼らにとって絶対的な絶望を意味します。
これにより、彼らの持つ独自の死生観、時間意識は解体され、私たち近代的精神が所有する「帰無していく時間」に改宗させられ、彼らに「虚無としての死」の恐怖が強引に与えられることになります。
第三節、具体的な時間(抽象化されない時間)
私たちの死の意識や虚無の意識は、抽象的に引き伸ばされた未来への関心(数十年後に死ぬ私、いつかは消える人類や地球など)を前提とします。
しかし、アフリカの伝統的な時間観念には「未来」がありません。
無いというより、あるのは少し先の未来であり、それは現在の延長にすぎない目の前にある現実的な関心(将来ではなく、具体的な目的)の及ぶ範囲です。
要するに彼らには抽象化(無限化)された時間(未来)の観念は無く、極めて具体的な時間を生きているということです。
これはフッサールの志向性、およびの原的時間が提示する具体的な未来に近い範囲内のことであり、抽象化によって具体から分離され、実体化(物象化)された時間の観念(無限につづく未来)ではないということです。
スーダンのヌアー族が使う時計、時間のシステムは「牛時計」です。
牧畜作業を基準に作られた時間意識です。
「牛を牧草地へ連れ出す時間」「乳しぼりの時間」「牛舎を掃除する時間」「牛の戻る時間」などの具体的な時間によって、生活を管理します。
潮の満ち引きによって時間を分節する民族もいれば、花の香りによって季節を分節する文化もあります。
しかし、そういう具体的な時間は、その風土の範囲内でしか機能せず、近代社会のように広範囲の交易が必要となると、共通の時間というものが必要となります。
当然、全世界で共通するものは太陽の運行であり、一昼夜を基本単位とした分割体系、私たちが現在使用する時刻が必然的に生じてきます。
それは等価交換物である「貨幣」とよく似た抽象的なシステムとして整備され、人は牛時計のように現実の作業を基本に時間を操るのではなく、逆に抽象化された時間そのものに具体的な生活が支配されるようになります。
「貨幣」とともにこの抽象化された「時間」という媒体が無ければ、近代市民社会の一般化された高度な分業体制を維持することは出来ません。
まとめ
時間のニヒリズムというものは、近代化され整備された時間の観念が生み出すひとつの幻想であり、それは自分で描いた顔の落書きの鏡像に怯える子供のようなものです。
帰無する不可逆的な時間の観念は主にヘブライズム、抽象的に無限化される時間の観念は主にヘレニズムにおいて発生、展開し、その二つの結合が、近代的精神における時間感覚を生じさせることになります。
おわり
※本頁は真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店の序章約40項をかんたんに要約したものです。序章が本書全体のまとめになっており、本論でさらにこのテーマが深く考察されていきます(時間があれば、また当サイトでも扱います)。