<第二章、賭け>
第一節
人間は関心によって絶えず運動する存在であり、それは常に途上にある求め続ける存在です。
途上である限り、必然的に「何処から来て何処へ行くのか」と反省的に訊ねる存在でもあります。
関心は時間という契機「未来」と関わり、それは未来の最終目的(テロス)である「死」、関心に引きずられる生の先にある運動の終末である「死」と出会います。
人間が死を思い、特に強い関心を持つのは当然のことです。
なぜなら、死は私にとって絶対的なもの、決して代替不能の究極的にかけがえのないものだからです。
死という虚無が「なぜ?」という、人間存在の特質「問われるべき」存在である、という事を最も強く自覚させ、その特質を最も顕わにするがゆえに、死への関心において生はその存在の全体を示します。
「死」は人間の根源的な在り方を開示してくれる智慧であり、私という存在は必然という地盤に安定するものではなく、単なる可能なる存在のひとつでしかないことを教えてくれます。
例えば、私が金や名誉や技能や美しさなどの特性を手にしたとしても、死を想う時、必然的で当然なものと思われていたそれらは、音もなく崩れていき、何でもないものとして相対化されます。
しかし、これは裏を返せば、生が常に自由に関心を向け動き続ける「可能なる存在」であるということを顕わにしているのであり、死の自覚とは、即ち生の存在性の自覚でもあるということです。
だから、尉戯という生の自己逃避は、生が死を考えることを避けようとすることの、ひとつの現象です。
「人間は死、悲惨、無知を癒すことが出来なかったので、彼等は、自己を幸福にするためには、それについては何も考えぬことを工夫した(168)」
しかし、いかなる尉戯によっても死を覆い隠すことは出来ません。
死は生のかなたにあるのではなく、「各々の瞬間において我々を脅かす(194)」ものであり、生は自己を省みるごとに死を見出します。
この生は死であり死は生である、という根源的なつながりを理解せねばなりません。
可能なる存在(相対的、不確実)でありながら、不可能(絶対的、確実)を希求することは、人間の本性です。
死を自覚し、人間の生が単なるひとつの可能性に過ぎないと知った時、最も不可能なものである「不死」と「永遠」への強い関心が生じます。
生の具体的な時間は、関心によって規定されますが、この時間は、究極的全体的な関心である「死」において、最も明確になり、「死の関心は時間の意識の最も決定的なる要素である(本書58項)」。
第二節
これらの考察によって、はじめてパスカルの言う「賭け」を理解するための基盤が与えられます。
神は存在するのかしないのか、理性によっては決定できない限りない両極の間の中で、人はどちらかに賭けねばなりません。
以下、三木によるパンセ(233)のまとめです。
私は賭の利害得失を調べてみよう。私の賭けるものは私の理性と私の意志あるいは私の知識と私の浄福との二つである。しかるに私の理性は或る一方を採ったからといって他の一方を採るよりも一層多く害せられるようなことはない、私はいずれにせよ選ばねばならないからである。そこで一つの点は片付いた。それでは私の浄福については如何であるか。今私は表の方すなわち神が存在するという側に賭けるとして、その利得と損失とを量ってみよう。このとき私が勝つとすれば、私はすべてを得る、もし私が負けるとしても、私は何物も失わない。したがって私は神が在るという方をためらうことなく採るべきである。しかし待て、私はあまりに多くのものを賭けて 自分を危くしていはしないか。勝つ機会がたとい一回しかないと見なされても、この勝利において私が利するものは永遠の生と無限の浄福である、そして他方においては負ける機会は限られた数であり、また私の賭けるものは限られた幸福しかもたぬ現在の生に過ぎない。無限が得らるべきところ、しかも勝利の機会に対する敗北の機会の数が無限でない場合、私は少しも躊躇する必要なく、よろしくすべてを投げ出すべきである。(本書59-60項より)
しかし、この賭けに対する本質的な疑問が生じます。
第一に、そもそも賭けなどせず、中立的な態度をとることも可能であるように思われます。
しかし、それは「不安」が許してくれません。
尉戯によって不安から逃避するのではなく、それと出会ってしまた以上、その求めて止まぬ自覚的な生の中で、人は中立に留まることはできません。
私のひとつひとつの行為や動作によって、ひとつひとつの意志決定において、賭けを含意しており、仮に私が永遠や神が存在せぬかような刹那的な自愛に生きる時、私は神の反対に賭けているのです。
神の存在の信・不信は、理論ではなく実践の問題です。
中立でいると思っている者は、自己の真の姿(可能的存在、不安定)を、虚偽の中立、虚偽の安静によって覆い隠しているに過ぎないのです。
そしてこの偽の中立、偽の安静に揺さぶりをかけるのが、不安の自覚です。
第二に、神に賭けることによって得られる永遠の浄福とは、一体どういうものを指しているのでしょうか。
「汝に慰めあれ、もし汝にして我に出逢わなかったならば、汝は我を尋ねぬであろう」と、パスカルは述べます。
求める心がクリアで本質的な不安にある時、この不安と希求心そのものの中に、神の実在の可能性が与えられます。
キリスト者の神は、人間に安楽を与えてくれるものではなく、むしろ人間がその惨めさの中で生きるためのぶれない真摯さを与えてくれます。
子供の頃は楽しく安らかであったものが、成長するとくだらないものになり、子供の頃は苦しく不安を与えたものが、成長すると自分に充足感を与えてくれるものに変化することはよくあります。
「新しき光を見た魂は、かつて彼を楽しませたものをもはや安らかに味わうことが出来ない」のです。
この人間の悲惨は、むしろ人間の偉大さを自覚させます。
その状況を悲惨であると感じられるのは、過去(あるいは未来)において、彼がより善いものであったことを示すものだからです。
なぜなら、位を奪われた王でなければ、いま王でないことを悲惨であるとは思わないからです。
悲惨の自覚の中で、人は高貴なものと出会い、目覚め、そこから真の生がはじまるのです。
人間は一本の葦でしかない、自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、人間は考える葦である。これを押しつぶすには、全宇宙はなにも武装する必要はない。ひと吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、殺すものより尊いであろう。人間は、自分が死ぬこと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからである。宇宙はそんなことを何も知らない。だから、わたしたちの尊厳はすべて、思考のうちにある。まさにここから、わたしたちは立ち直らなければならないのであって、空間や時間からではない。わたしたちには、それらをみたすことはできないのだから。だから、正しく考えるようにつとめようではないか。ここに、道徳の原理がある。(347)田辺保訳
おわり
※本書は全六章で構成されていますが、今回取り上げたのは中心となる二つの章のみです。