ニーチェの積極的ニヒリズム

哲学/思想

積極的ニヒリズムと消極的ニヒリズム

若い頃のニーチェが心酔したショーペンハウアーの哲学(消極的ニヒリズム)を乗り越えるために持ち出された概念が「積極的ニヒリズム」です。
対決しようとする「消極的ニヒリズム」の病因はプラトンに始まるヨーロッパ形而上学的な思考であり、それはショーペンハウアーと同時に、プラトン、その宗教的発展であるキリスト教、および名門キリスト教聖職者であった自分の両親、ドイツ観念論への宣戦布告でもあります。
若い頃のニーチェは異様なほど真面目で熱心なキリスト者であった分、それらの内にある病理性を心と身体の芯からよく理解していました。
病める者のみが病める者の心を知ることが出来ます。

 

形而上学のニヒリズム

一般的に形而上学(メタ-フィジカル“超-物質的”)とは、現実的な物の世界を超えた超自然的なものを設定し、それを真の実在とする立場です。
現象の世界を超えたプラトンのイデア、現世を超えた宗教的な神や彼岸、近代的な理性(典型がヘーゲル)や近代科学的な真理など、それらは形を変えながら変奏されています。

では、なぜこれらがニヒリズムなのかと言うと、原理的かつ本質的にそうあらざるをえないからです。
ニヒリズムとは、理想や価値を喪失した無意味な状態を指す世界観です。
いわば理想や希望を失い、絶望している状態です。
しかし、裏を返せば、人間は理想や希望を持たなければ、そもそも絶望などしないわけです。

本来何もないところに架空のもの(形而上学的なもの)を立てているため、必然的にその希望は叶わず破れ、必然的に絶望しているのです。
ありもしないオアシスの蜃気楼を追いかけ続けているうち、いずれ人はその虚構性に気付きニヒリズムに陥ります。
例えば、アイドルや美少女アニメのような理想(イデア)的な虚構の女性を追い続ける限り、本当の女性は決して見付からず、夢から醒めた時に残るものは無力になった自分と絶望だけです。

ヨーロッパ思想史の発展が、イデア(理念)という虚構への耽溺と、その潜在的なニヒリズムという終局にいたる運動そのものであり、その終局をニーチェは「神は死んだ」という言葉によって表現します。

 

イデア(理念、理想)に篭絡される人間たち

少し分かりにくいので現実的な具体例で解説します。

例えば私が星空を見ているとき、天文学者がやってきて「あの星は20万光年先からやってきた光で、今はもう消滅した銀河を私たちは見ているんだよ」と言ったとします。
私がいま肉眼で見ている現実の星は仮象であって、真の実在は「今はもう消滅した銀河」というわけです。
しかし、「今はもう消滅した銀河」は、いま目の前に輝く星という諸現象から推論によって導き出された二次的なものです。
肉眼で見えるリアルな経験、明るさや色や視直径や年周視差などの現象としてあらわれるデータをもとに推論された仮説(仮象)であって、何か違う反証データが出てこればすぐに変わってしまうものです。

にもかかわらず、私たちは肉眼で見る現実の星ではなく、本来仮説(虚構)である科学的な真理を本当の実在だと信じ込んでいます。
科学的真理を信奉する科学者は、神という虚構を信じる宗教者をバカにするわけですが、ニーチェからすれば双方同じ穴のムジナです(現代の科学者はその仮説性をよく理解している人が多い)。
これはフッサールの危機書のテーマです。

 

イデアの本質

イデア(形而上学的なもの)の本質は何かと言えば、現実逃避です。
世界の無意味さに耐えられない弱き人間が、それを覆い隠すために立てた形而上学(超-現世)的な世界です。

ニーチェがショーペンハウアーを評価するのは、彼が現実の不毛さと絶望、人間のエゴの生々しい姿をきちんと見据えた上で、形而上学的なもの、芸術や宗教へのあからさまな逃避を謳うからです(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』参照)。
プラトンやキリスト教や近代的な理性は、その事実を覆い隠す詐術であり、だからこそそこから生まれる裏切りと絶望は、より深くなってしまうのです。

 

積極的ニヒリズム

では、どうすれば良いのかというと、現実の虚無を自覚し、それに覆いをしたり、それから逃げたりするのではなく、むしろそれを徹底的かつ積極的に受容することによって、克服することです。

アッチの世界なんてない、あるのはコッチの世界ただひとつであり、この世界に最終的な目的などなく、とめどなく無意味にまわり続ける世界(永劫回帰)しかないと自覚することです。

ハムスターの回し車のような無意味な回転が人生であり、それに対して最大級の“Ja(ヤー、独語のYES)”を贈りつつ、時に仮象(イデア)を仮象と知りながら敢えてそれに乗るフリをして楽しむギリシャ的遊戯。
それがニーチェの言うニヒリズムであり、そこには何らネガティブな要素はありません。

 

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