<第三章、モンスーン的風土の特殊形態、日本>
台風的性格
日本はモンスーン的な受容性と忍従性の中にありながら、日本的な特徴である「台風的性格」を持っています。
他の地域における安定した季節風と違い、日本の場合は台風という「突発性」をともない、さらに夏と冬の差が激しい「熱帯性」と「寒帯性」の二重性格を持ちます。
熱帯的植物の竹に雪が積もる特異な光景が、日本の風物としてとらえられるのはそのためです。
ちなみに季節風とは季節による海と陸の温度差によって生じる風のサイクルです。
日本の季節風は夏は日本の南東から、冬は北西から吹く風で、台風はその風に乗って日本へやってきます。
それらを考えると日本は、モンスーン的風土の受容的・忍従的なあり方と共に、熱帯的・寒帯的、および季節(規則)的・突発的という二重性格が加わるのです。
日本的受容性
モンスーン的な受容性は、日本人において極めて特殊な形になります。
日本人の感情は、熱帯的な横溢と、寒帯的な静かな持久性の総合においてあり、感情は豊富に流れ出でつつ、「変化において静かに持久する」感情です。
また、それと同時に、四季折々の季節の変化が著しいように、日本人の受容性も調子の早い移り変わりを要求し、活発で敏感で疲れやすく持久性を持たず、気分転換や刺激による癒しを欲します。
しかし、その感情は変化によって別の感情となっているのではなく、絶えず他の感情に変転しつつも同じ感情として持久し、依然として元の感情のままなのです。
すなわち、感情は「変化においてひそかに持久する」のです。
それは、突発的で偶然的に変化していく新しい感情を、元にある感情によって規定し転化しながら受容していくということです。
非常に分かりにくい表現ですが、和辻が言いたいのは季節と感情のアナロジーです。
四季のように刻々と変化していきつつ、時折、台風のように突発性と偶然性をともなう感情の猛烈な発露があります。
そうした気分や感情の変転は、好みがコロコロ変わり右往左往する安易な移り気ではなく、旬のものを楽しむ和食の精神のように、変化そのものを楽しむ心でありながら、決してその変化自体に呑まれない持久した感情の芯を持っているということです。
その芯は、無常観であったり、いき(九鬼周三の項を参照)であったり、神道的な汎神論的感情であったり、とらわれのないあるがままの心であったり、様々な可能性としてありますが、和辻はそういう日本人の「変化そのものの中において静かに存在を主張(維持)する独自の心のあり方」を一般化して語っているのです。
私達日本人は、四季の移ろいに感情移入し感動しても、それに捕われている暇もなく、次の変化がやってきます。
それは、桜のようにぱっと咲き感動し、あわただしく恬淡に散っていくような、熱情と冷静が共存する感情を生じさせます。
感情の高揚を尊びながらも執拗な感情は忌み、浅さの中に深みが深みの中に浅さが表現された、そういう二重性の気質が日本人の特徴なのです。
日本的忍従性
モンスーン的な忍従性も、日本人において極めて特殊な形になります。
ここでも暑さと冷たさが並存しており、反抗的な諦めと気短な辛抱が、忍従の特徴となります。
圧倒的な自然の暴威を前に、忍従せずにはいられませんが、その内には闘争的な気分が湧いているのです。
自然に対し、征服も敵対もしない(できない)で、闘争的・反抗的気分の中で諦めに達するのです。
日本人の特異な「ヤケ(自暴自棄)」という感情に、典型的にそれが顕れています。
当然この忍従は受容性と同様、突発的という特質も持ちます。
忍従の内にある反抗は、しばしば台風のような猛烈さと突発性において燃え上がり、この嵐の後には突然、静かな諦めが現れます。
ここにおいて、反抗と戦闘の猛烈さは嘆美されますが、それでいてそれは執拗であってはならないのです。
きれいに諦めるということが、戦いを一層嘆美すべきものとするのです。
俄然と反抗から忍従に転じ、潔く忘れることが、日本人の美徳とするところです。
ここでも、ぱっと咲いて潔く散る桜の花に、日本人の気質(突発的忍従性)が象徴的に表われています。
反抗や闘いの根底には、生への執着があります。
しかし、激しい闘い(激しい生への執着)の中に、同時に淡白に命を捨てられるという生への恬淡が存するというその二重性が、日本人特有の台風的な忍従性を特徴付けているのです。
日本の人間の特殊な存在の仕方は、豊かに流露する感情が変化においてひそかに持久しつつその持久的変化の各瞬間に突発性を含むこと、及びこの活発なる感情が反抗においてあきらめに沈み、突発的な昂揚の裏に俄然たるあきらめの静かさを蔵すること、において規定せられる。それはしめやかな激情、戦闘的な活淡である。(岩波文庫『風土』和辻哲郎166項より)
おわりに
あくまでもこれらの記述は、国民性や県民性のステレオタイプで人間を類型化するような安易なものでも、環境が人間に与える影響の単純な社会学的・心理学的考察でもなく、副題にあるように「人間学的考察」です。
20世紀前半、文化人類学と自然人類学に分化していく傾向の中で起こった、人間の統一的な理解を目指した「人間学」の流れにあるものであり、本書はハイデガーの『存在と時間』の批判的補完としての空間(風土)的記述です。
重要なのは、和辻の風土に関する記述の真偽ではありません。
これらはあくまでも、「人間存在の構造的契機」としての風土が、実際にどういう形で人間の形成に関わっているかの例示であり、和辻に学ぶべきはその内容(結果)ではなく、方法論(過程)です。
そこを見落とすと、本書の重要性は半減するだけでなく、多くの誤解(悪しき決定論、全体主義の擁護など)を生むことになってしまいます。