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語の意味
「メディウムスペシフィシティ(媒体特殊性)」とは、その媒体の本質的な特性を示す概念です。
メディウム(ミディアム、medium)は、なんらかのものの間にある中間項として、それらを媒介する媒体物を指します。
芸術においては、絵画、映画、演劇などの大きなカテゴリーから、油彩画、サイレント、独演劇などの小さなカテゴリーまで、作り手と受け手を媒介するメディア(mediumの複数形)すべてを含みます。
スペシフィシティ(specificity)は、固有性や特殊性のことであり、他のものは持っていない、自分固有のかけがえのない性質(本質)のことです。
絵画であれば平面性、彫刻であれば立体性、建築であれば空間性などでしょうか。
しかし、そのものの本質(固有の特性)を決定することは非常に難しく、あらゆる分野で延々と議論され続けるものです。
例えば、脳死の議論は、根本的には「人間」の本質規定に関する議論です。
本質を決定する手続きとして、哲学者フッサールの提示した「自由変更」という概念があります。
頭の中で対象物を自由に変更していって、それがそれでなくなる瞬間の境い目が、そのものの本質のアウトラインだということです。
例えば、イスの座面の角度を30度に変更しても座れるのでイスですが、60度にすると座ることは不可能でイスではなくなり、むしろイーゼルの本質に近付きます。
具体例
具体的に考えてみます。
私たちが小学生の時に与えられた「透明水彩絵具」の「メディウムスペシフィシティ(媒体特殊性)」とは何でしょうか。
水で溶かれた薄い絵具の膜の塗り重ねによって生じる透明性と多層性。
水で溶かれた曖昧で有機的な輪郭と、にじんでゆく柔らかいタッチ(筆跡)。
厚塗りの効かない薄い膜による、薄い色味と透ける支持体(画用紙)のテクスチャ。
分かりやすく喩えると、いわさきちひろの絵画が「透明水彩絵具」の媒体特殊性を実現している、純粋な水彩画と言えます(児童文学的なモチーフやテーマは無視したとして)。
メディウムのナショナリズム
メディウムの限界というものが、そのメディウムの本質と一致するというのが、媒体特殊性の基本理念です。
作品がそのメディウムの本質に近いものであればあるほど、純粋で真正な出自のものとなり、反対に他のメディウムの特性を借用する作品は不純なものとして切り捨てられます。
油彩画で水彩画風の絵を描くものや、水彩画で油彩画のように描くものは、他のメディウムに自己のメディウムを従属させる雑種であり、芸術の混乱を生み出すものとなります。
戦後日本の場合
多くの場合、個人の作品にしろ美術史的な潮流にしろ、自己のメディウムの本質を理解することなく、ただ時代のモードの中心にあるメディウムの特性を借用しているだけです。(注1)
20世紀は映画の時代といわれ、戦後日本で隆盛を極めたメディウムはマンガです。
しかし、そのマンガは自己の媒体特殊性を実現するよりも、映画の媒体特殊性を再現(借用)することに躍起になり、自らの可能性を見失っていたともいえます。
いわゆる映画のようなマンガである手塚治虫からはじまる系譜です。
西洋近代の場合
それと同じ様に、文学がモードになっていた西洋近代において、文学の奴隷と化した絵画を救い出すために持ち出された概念が「媒体特殊性」です。
それによって自己反省を促し、自己の存在を自覚的に保持しようという努力が、アバンギャルド(印象主義から抽象絵画を含む広義の)を生んだというのがグリーンバーグの説です。
次項でその中心になる論考をまとめます。
『さらに新たなるラオコオンに向かって』
序章
いま(年)声高に芸術の純粋性を主張する者たちの態度、すなわち絵画における抽象性やモチーフを離れた非対象への志向性は、決して独断的でカルトな主張というわけではない。
彼らはむしろ誰よりも芸術を大切にし、芸術の未来と自立性を憂慮しているのである。
これら抽象芸術や純粋主義者は、過去数世紀の歴史における芸術の混乱に対しての健全な反応として生じたものである。
第一章
人間の文化において、その時代や場所における支配的な芸術形式というものが存在する。
ヨーロッパでは十七世紀までに「文学」というものが優勢になっていた。
商業ブルジョワジーの台頭や宗教改革による解放、活版印刷の発明によるメディウム(媒体)の安価な供給とその移動可能性が、文学への欲求を促した。
支配的な芸術形式は他の芸術すべてのモデルとなり、各々の芸術が持つ本来の特性を捨て、支配的芸術を模倣しようとする。
従属的な芸術は支配的芸術の力を手に入れる努力の中で、自身固有の性質を否定し、道に迷い始める。
その結果、芸術に混乱が生じる。
しかし、従属的芸術が支配的芸術の模倣というイリュージョンを生み出すためには、自身のメディウム(媒体)性を隠すことができるほど、己の技能に成熟していなければならない。
だから技術的に未発達で、その芸術の可能性を十分開拓されていないものは、この運命をまぬがれる(例えば音楽)。
特に絵画と彫刻は他の芸術の効果を自身の上で再現できるほど発達しており、十七・十八世紀においてこれらが求めたのは「文学」の模倣であった。
たんなる文学の影になった絵画においては、固有のメディウムについては顧慮されず、写実的な模倣が当然とされ、重点はその描かれる「主題」であり、必要とされるのは芸術家の詩的能力になる。
これらの文化のただ中に生きてきた私たちには、文学のイリュージョンというものを自覚することは難しい。
しかし、別の文化における芸術のあり様と比較すると、それがよく分かる。
例えば、これとは逆に、絵画が支配的芸術で詩が従属的芸術である中国においては、詩はあくまで絵画の一要素であり、詩とその筆跡自体が視覚的芸術として自らの本質を限定し存在している。
第二章
ヨーロッパ・ロマン主義の潮流は、絵画に希望を与えるのではなく、混乱を与えた。
ロマン主義の本質とは、芸術家が感じた特定の感情を、鑑賞者に伝達することである。
感情をクリアに伝達するためには、むしろ媒介(メディウム)の特性は障壁であり、その個性を徹底的に抑制し、無媒介性を確保することが理想となる。
その理想的な状態とは、芸術家と鑑賞者の経験が無媒介的に直結し同一になることである。
やがて絵画は、センチメンタルで虚飾に満ちた文学に奉仕する写実(無媒介)的なイリュージョンとなる。
第三章
ブルジョワ社会から生まれたロマン主義は十九世紀中葉には衰退し、アバンギャルドが生じてくる。
この時点において絵画はもう、ピクトリアルなもの(絵画)から、ピクチュアレスクなもの(絵のような風景-絵葉書の挿絵のような-)に堕ちており、その価値はその絵の主題がすべてになっていた。
このような事態から絵画を救出すべく、ラジカルな芸術が生じる。
ロマン主義から生まれ、かつそれを否定するアバンギャルドは、自己保存本能を有し、芸術自身にとって何が良く何が悪いかの感覚に長ける。
第一にアバンギャルドは、「思想(一般化された主題)」からの逃走を重視する(ちなみに「主題」は芸術家が制作時に意識的に持つものであり、作品自体の持つ「内容」ではない)。
これは芸術の力点を内容から形式に移すことであり、各々の芸術形式が自律し、その個性を尊ぶことである。
それは、絵画は単なる思想の器としての媒体(メディウム)ではないという主張、いわば文学の支配に対する反抗を意味する。
絵画において先ずこの革命の狼煙を上げたのがクールベだった。
彼の絵の主題は散文的(非文学的・非詩的・非理想的)であり、対象を心や感情のフィルターに通さず、感覚に直接与えられた素材の羅列として描く。
その絵は平面的で関心の中心点がなく、まるで役者の居ない舞台の書き割りのようである。
さらに印象主義はクールベを乗り越えて、日常経験すら捨て、科学的な態度によって、視覚経験と絵画の本質を抽出しようとした。
それは自然の再現ではなく形態や色彩の本質的表現、主題(テーマ)ではなくメディウムを中心とした問題意識である。
第四章
アバンギャルドは音楽の方法論にその最終的な解法を見出した。
それは音楽の効果を真似ることではなく、その原理に目を向けることである。
音楽は模倣から最も遠く、メディウムの物理的な特性に同化するというある種の完全性を持ち、鑑賞者に対し思考や心を通さず即時的直接的に伝わる。
音楽は抽象芸術であり、音楽は音楽的感情以外の何ものも意識に伝えることはできず、他の芸術形式では通訳(模倣)不可能な「純粋形式」を持つ。
しかし、実はこれは他の芸術形式にも言えることであって、それぞれの芸術はそれぞれ独自の感覚的・直接的な純粋性によって存在しうるのである。
その自覚なく、純粋性、抽象性、即時性、感覚性、自己充足性というものを、音楽の専売特許だと思い込む誤解が、芸術の混乱を生じさせるのである。
第五章
アバンギャルドは音楽の純粋性を範とし、自己の境界を決定した。
それは、それぞれの芸術の国境を明確に定めることであり、自己のメディウムの限界を確認し受け容れ、その国境内での自由と安全を保証することである。
あらゆる造形芸術はメディウムを基準にカテゴライズされ、その独自性と本質が規定される。
絵画や彫刻などの造形芸術は、他の芸術に比べ純粋性を獲得しやすい。
外観と機能が一致する、機能主体の建築や道具のデザインのように。
そうして、アバンギャルドの絵画は自己の生み出す視覚的な感覚の中で充足し、それと比較したり結びつけたり考えたりするものは何ら必要とせず、ただそれのみを純粋に感じるだけになる。
純粋な造形芸術とは、量としては最小限度、質としては最高のもの(ミニマル)を求める、抽象的で直接的な感動(感覚)を生み出す機械である。
アバンギャルドの絵画の歴史は、メディウムによる抵抗運動の歴史である。
透視画法的な立体空間のイリュージョンを、その平面性により脱し、絵画は文学の模倣(写実)であることをやめる。
ルネッサンスにおける「芸術は技巧を隠す」という言葉は、「芸術は技巧を現す」に代わる。
絵画は明暗と陰影による立体表現(キアロスクーロなど)を捨て、タッチは対象に准ずるのではなく、それ自体が表現となる。
色の調和や正確さは、感覚的な色そのものの自由な発露となり、写実の中で存在意義を失っていた「線」という抽象的なものが、油彩画の中に戻ってくる(現実の中に輪郭線は存在しえず、あるのはモノとモノの境界だけであり、写実では線を描くことを許されない)。
描かれる形体は現実よりも、その本質の表現である幾何学的な形として単純化される。
画面そのものが平板化し、奥行きのイリュージョンはやがてキャンバスの表面(現実の物質的画面)において一致する。
三次元的な絵画空間は死にいたる。
第六章
芸術の伝統と歴史が、抽象芸術から逃れられないように人間を圧する。
抽象芸術があまりに非人間的で装飾的に過ぎると不満をこぼしても、ただ過去に還り模倣や文学の死体を抱くほかない。
抽象芸術を素朴に回避することも否定することもできない。
唯一可能なことは抽象芸術と同化し、その先へ突き進むことである。
その先に何があるかは分からないが。
『モダニズムの絵画』
モダニズムの本質はカント的な自己-批判にあり、カントを最初のモダニストと見る。
それは啓蒙のような外側からの単純な批判ではなく、内在的にそれ自身の内からそれ自身の手段でもって自己を批判することである。
それは或るものを破壊するために批判するのではなく、或るものをより強固に確立するために批判するのである。
理性の自由と安全の場を確約するために、理性を用いて自己の理性を批判し、理性の限界を確定するのが、カント的な理性批判である。
十九世紀以降、混乱する社会のあらゆる分野で、自己の存在価値や社会的位置づけの明確化が必要とされ、カント的自己批判がそれに応えることになる。
それぞれの芸術も自己の責任において自己を証し、何が自己に独自のものであり何が不要であるのかを批判的に検討し、自己の本質を限定する必要があった。
各々の芸術の本質は、そのメディウムの本質と一致することはすぐに明らかになった。
別の芸術のメディウムから借用している効果を除去し、自己の純粋さと自立性を確保する「自己-限定」こそが、「自己-批判」の企てである。
リアリズムの芸術は技巧によってメディウムの存在を隠蔽するが、モダニズムは技巧によって芸術の本質(=メディウムの本質)に目を向けさせる。
消極的なものとして扱われたメディウムの制限(絵画の平面性、カンバスの形体や凹凸、絵具の物質的特性など)が、積極的な主役の要素となる。
特に絵画がモダニズムの下に、自らを批判し自らの本質を限定していく中で最後に残ったものは、その平面性・二次元性であった。
おわり
※注1
メディウムの選択においても同様、多くの場合、自己の目的(表現)のための最適な手段(技術)としてメディウムを選択する人は稀で、ただ「何となく」選んでいるにすぎません。
何となく選んだメディウムで、何となく選んだ他のメディウムの特性を借用して表現するというのが、一般的な作家です。
芸術表現が画一化する遠因でもあります。