ルターの『キリスト者の自由』(かんたん版)

宗教/倫理

背景

16世紀にローマ・カトリック教会で起きたキリスト教改革運動の代表となる者がマルティン・ルターです。
ローマ・カトリック教会は、教皇を頂点とした中央集権的な教会組織のヒエラルキーによって、キリスト教界を合理的に統率します。
しかし、強力なひとつの権力システムというものは、必然的に内部から腐敗してくるため、やがて改革の必要性が生じてきます。
特にルターが聖職者と教会の堕落を批判することになったきっかけは、「贖宥状(いわゆる免罪符)」の発行です。
教皇が人々の罪と罰を免除する恩恵を与える証書を販売することによって、財を集めたからです。
分かりやすくたとえれば、ルターはキリスト教の王制から民主制への改革を目指す宗教改革者です。

 

信仰義認論

呼んで字のごとく、人が義(ただしい)と認められるのは、ただ純粋に信仰のみによってであると言う考え方です。
免罪符はもちろんのこと、高い地位や立派な教会や豪華な僧衣、寄進の量や善行の数や律法の遵守などという外面的なものには何の意味もなく、罪を赦され義と祝福が与えられるものは内面の篤い信仰だけなのです。
信仰なき外面的な行為は偽善と迷妄に落とすものであり、多くの聖職者は迷う人々に説教しながら、むしろ彼らと自分自身を神から遠ざけるのです。

 

万人祭司説

信仰を持つすべてのキリスト者は神のみ前において平等に祭司としての責任を負い、キリストの教えを実践しそれを他者に伝えなければなりません。
信仰によってあらゆる罪と戒めと律法から解放された自由なキリスト者の魂は、平安と喜びと満足の状態にあるため、自分のために何か外的な行為をなす必要がなく、必然的に隣人(他者)のために生きる(行為する)ことになります。

 

キリスト者の自由

信仰のみによって義しくされ罪と戒律から自由になるのであれば、キリスト者は勝手気ままな振舞いによって、むしろ堕落してしまうのではないかとも考えられます。
しかし、ルターからすれば、既存の戒律遵守のあり方は本末転倒であり、本来的には信仰さえあれば、すべての戒律は自然と守られるものだからです。

例えば、よく受験生が壁に戒律のようなものを貼ります。
朝6時に起きる、テレビは一日30分、恋愛禁止、等々。
けれど、これらのものは、合格するという強い勉強の意志さえあれば、必然的に守られるものであり、そういう成功者の生活から抜き出した理を事後的に取り出して並べただけのものです。
受験に対し真剣であれば、必然的に早起きして予習勉強し、必然的に娯楽時間が減り、必然的に異性より勉強に目が向きます。

それと同じように、キリスト者は信仰さえしっかり持っていれば、内的な魂においては自由でありながら、外的行為においては戒めと律法に従うことができるのです。

 

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