あらすじ
主人公ムルソーは母の葬儀のために養老院を訪れます。
その態度は淡々としており、涙を見せることもありません。
葬儀の翌日、知人の女性と喜劇映画を観に行き、関係を持ちます。
そうして何事もなかったかのように日常に戻りますが、友人の男性とその敵対者との間のトラブルに巻き込まれ、相手のアラブ人を射殺してしまいます。
状況からして、刑は軽いもので済むはずでしたが、裁判では、母親の葬儀で泣かなかった事、遺体の前でタバコを吸った事、翌日に喜劇で笑い、女性との情事に耽った事などが問題視され、冷酷非道な人間とみなされます。
量刑の判断において重要な要素である動機に関しても、「太陽が眩しかったから」とだけ述べ、一縷の望みも潰え、死刑を言い渡されます。
死刑の前夜、しつこく悔い改めと神への帰依を要求する司祭に対し激昂し、追い払います。
そして、ひとり孤独の中で、世界の大いなる無関心という優しさに包まれ感動し、処刑の時を迎えます。
異邦人の定義
まず、本書のタイトルである「異邦人」とは何を指しているものでしょうか。
第一に、それは社会の中で極少数の人間であることを意味する「異邦人」、第二に、存在論的な意味で、人間が世界や自己自身から疎外されているという意味での「異邦人」です。
本書では主に第一の意味での異邦人が主題であり、第二は別の著書『不条理の論証(シジフォスの神話、所収)』における主題です。
ですので、この頁では、前者について解説していきます。
物語の構造
この小説の基本的な構造は、ソクラテス裁判とキリストの受難がモデルとなっています。
社会通念の中で生きる世間一般の人々が、真理を告げる者(ソクラテス、キリスト、ムルソー)を恐れ、処刑する物語です。
真理というものは基本的にラジカルな性質を持っており、人々の常識や習慣を破壊します。
ですので、真理を告げる者は、多くの場合、社会秩序を守ろうとする保守的な人々に迫害され、危険分子として処刑されてしまいます。
不条理という真理
では、ムルソーが現代のソクラテスであるとするなら、彼の告げる真理とは何でしょうか。
ソクラテスの場合は「無知の知(無知の自覚)」であった様に、ムルソーの場合は「不条理の自覚」です。
ソクラテスは徹底的に「私は知っている」という知の幻想を破壊し、無知「私は知らない」ということを不断に自覚させ、そのアポリア(解決策のない行き詰まりの状態)の中で頑強に耐え抜くことを求めます。
それに対しムルソーは、徹底的に「条理(合理性、統合)」に反抗し、「不条理(不合理性、乖離)」を不断に自覚させ、その中で頑強に耐え抜くことを求めます。
では、なぜ人は不条理を自覚せねばならないのでしょうか。
その理解のために、異邦人と世間一般の人々の違いを整理してみます。
世人(ダス・マン)
異邦人の反対は、世間に埋没した一般的な人々です。
いわゆるハイデガーの言う世人(ダス・マン)です。
世人と異邦人の違いは何かというと、不条理の自覚です。
わかりやすいように、具体例で考えて見ます。
私は普通に社会の中で生活し、日常を滞りなく、条理的に生きています。
しかし、ある日突然、私は倒れ病院で余命半年と宣告されたとします。
その瞬間、それまでの条理的な世界は崩壊し、不条理が露呈してきます。
その時はじめて私は自分の死を自覚し、世界の底知れぬ無と出会い、自分自身と人生に対し、真剣に向き合うようになります。
それまでの自分の関心は、他者や外的な事物にばかり向いていましたが、ここで私の人生がかけがえのないたった一度限りのものであることに心底気付き、転回します。
それまで世間に埋もれ生きていた自分は、何者でもない誰かの人生を生きていただけであり、ここに到って、ようやくかけがえのない自分の、かけがえのない人生を生きるようになります。
不条理の出現
この世界の虚無と出会う不条理の自覚は、自分の死に限らず、様々な危機の中で起こります。
いわば自分の条理的な世界を構築していた要素が消失し、私の日常世界が崩壊する時などに起こります。
身内の死、受験の失敗、失業、破産、失恋、裏切り、等々。
例えば、カミュは貧しい家庭に育ち、健康にも恵まれず、苦学の努力も運命によって握りつぶされました。
彼の場合、いくら努力しても現実の不条理に跳ね返され続けたその経験が、世界の虚無を自覚させたわけです。
(この感覚がイマイチ分からない人は、「漢字、ゲシュタルト崩壊」で検索し、実験してみてください。漢字が漢字である状態は各辺が統合された条理の状態です。ゲシュタルト崩壊後、漢字がわけの分からないバラバラの辺の集積になった時に感じる眩暈や不安のようなものが、不条理の感覚に近いです。)
異邦人
しかし、そんな特殊な経験を持つ人、というよりそれを真正面から受け止められる人は、世間の中では極少数です。
世人もうすうす不条理というものを感じてはいますが、それは自分の統合された安心できる世界を崩壊させるものであるため、恐怖でしかなく、何が何でも見て見ぬふりをしてやりすごそうとします。
結局、不条理を覚った者は、そんな世人の中で孤独な異邦人として生きなければならないのです。
例えばそれは飲み会で、酒を飲めない人が、一人だけウーロン茶で酔ったふりをして、周りの皆に合わせているようなものです。
そうしなければ、社会の中で生きてはいけません。
そこにあるのは絶望的な孤独感、異邦人の意識です。
この道化芝居を誠実に拒んだのがムルソーであり、案の定、彼は世人によって社会秩序を乱す危険人物として処刑されました。
条理の野蛮
ここで最初の問いに戻りますが、ではなぜ人は不条理を自覚せねばならないのでしょうか。
虚構を真実だと思いながら、酔払ったままの世人の人生でも、それが本人にとって幸せであるなら良いとも思えます。
別にムルソーは、彼らに異邦人(不条理の人間)としての生き方を強要はしません。
ただムルソーは、自分の思想を自分の生き様によって示すだけであって、説教じみたことは一切しません(過度に越境してきた最後の司祭を除いては)。
しかし、問題は世人が異邦人に対しての理解をもたないため、まるで未開の野蛮人を見るように、自分たちを害する恐怖の対象、蔑視の対象として扱い、自分達が勝手に真理だと思い込んでいる幻想を強要(教化)してくることです。
その世間の習慣に従わなければ、抹殺される危険すらあるのです。
現実の不条理性
現実というもの、世界の生(なま)の姿というものは、本来は不条理なものです。
しかしそれでは扱いにくいため、人間は混沌とした不条理を、条理の升目に押し込み、合理的に統合することによって、秩序付けられた社会と、自己の統一性(自己同一性)を獲得します。
もちろん、ここでは升目からあぶれ、取りこぼされる不条理があり、そこに人間の悲劇が生じます。
例えば、世界をありのままに見れば、私は誰かを愛しながら同時に憎み、誰かを憎みながら愛しています。
私は端的に「あなたを愛している」などと言う事はできません(あえて決断を表明することによって、社会的責任を引き受ける場合を除いて)。
それはただ、様々な感情が混在している中で、条理の原理に従って「愛している」という感情のみを取り出し整理しているだけであり、そこからこぼれ落ちた感情は、無意識の底に沈んでいきます。
事物の真の姿
例えば人は、母が死んだ悲しさと当時に、そこはかとなく解放の喜びを感じており、母は子供の自立を喜びながらも、どこかで自分の占有物でなくなることに悲しみを感じています。
感情の深さとは強度ではなく、無数の感情が折り重なり混在している状態のことである、と精神科医(実存分析)のアルフレート・クラウスは言います。
母が死に泣き続ける友人の悲しみ(強度)は、別にムルソーの淡々とした静かな悲しみより深いわけではありません。
ひとつのエピソードとして、年老いた老人とくたびれた飼い犬が、いつもいがみ合いながら散歩をする姿が描かれます。
世人はそれを見て、悲惨な関係だと言いますが、老人はその犬を憎みながらも非常に愛しており、犬が失踪した際は心配し探し回ります。
真理という名の習慣
要するに、「世の中そんな単純ではない」にもかかわらず、単純にとらえる事によって、人は不条理を回避し、条理の統一の中で生きます。
世人にとっての真理とは単なる習慣であり、真理(習慣)の名の下に、ムルソーは処刑されます。
「悲しみ=泣くこと」と単純化(脱不条理化、脱深化)されて、社会的な習慣となったその真理の幻想が、感情本来の深みを覆い隠し、それを抹殺します。
動機なき動機
それと同様、本来、人に明確な行動の動機などないのです。
動機は、後付で考えられた説明や言い訳のようなものであり、それは自分の行動を自己に統合し、人間が行為主体であるという幻想をもつための、そして社会の成員であるために必須の責任主体という幻想をもつための、要請にすぎないのです。
人間は自己同一性の基礎である主体の感覚を得るため、本来「何となく」した行為から強引に動機を捏造し、同時に社会はその動機を個人に問うことによって、責任主体(社会人)として承認します。
だから不条理を正面から見据えるムルソーにとって、自分がなぜピストルの引き金を引いたかなど、決定できないのです。
しかし、社会は責任主体というものを前提に成立しており、その主体のあり方に従い量刑を判断するため、彼の殺人の動機(防衛か、復讐か、快楽か、金か、等)というものが非常に重要になります。
彼が不条理に目をつぶり「自己防衛のため」と条理的に証言すれば、死刑は免れたであろう状況において、「太陽がまぶしかったから」という誠実な回答を取ったことによって、自分の命をその代償として失ってしまいます。
飲み会で酔っ払ったフリをしなかったため、集団内から排除されたわけです。