カミュの『異邦人』(2)不条理の美

哲学/思想 芸術/メディア

(1)のつづき

 

実存主義の美

今度は、「異邦人」に通底する美の問題について考えてみます。
世人から異邦人に転回したときに見えてくる、世界の美のあり様です。
分かりやすくするために、まず、条理を生きる世人と、不条理を生きる異邦人の違いを整理します。

 

条理の世界、不条理の世界

「条理」とは、目的論的で、何らかの目的を持ち、その目的に準拠して世界の各事物を意味づけ、取捨選択し、その目的を頂点としたピラミッドの中に、ひとつの世界として整理整頓することです。
ですので、諸事物は目的のための手段(道具)として意味づけられます。
喩えるなら、消失点が固定した、整った絵画(いわゆる上手い絵)です。

「不条理」とは、目的(未来)を持たず、世界の事物を整理するための軸を持たないため、それぞれの経験や事物がバラバラで独立しています。
意味や価値を形成するために必須の関係性の網をまとめる軸が生じないため、世界はただ意味のない純粋な形体や様態としての生(なま)の姿でとらえられます。
事物は未来や目的のための道具ではなく、それ自体が目的である、ただ、いま・ここにある一回性のものとして現前します。
喩えるなら、視点(消失点)が無数にある未整理のイメージの羅列である原始絵画、あるいは何のつながりもない短い自然の映像をランダムに流す深夜TVのフィラー(つなぎ)番組のようなものです。

 

アリストテレスのエネルゲイア

ここでよく人生論などで紹介される、有名なアリストテレスの概念で説明してみます。

例えば、私が会社に出勤する際、会社への移動という明確な目的を持っているため、「道」は合理的に移動するための道具であり、「歩行」は出社という目的のための手段です。
未来の目的のために、いま現在の時間の意味を位置づける、時間的なもの(スケジュール)です。

これに対し、目的のない歩行は「散歩」であり、それは歩くことそのものが目的であり、手段と目的が合致する、無時間的な経験です。
「道」は、出勤のための移動の道具として見られていた時は、何の美しさもない殺伐とした存在でしたが、それそのものが目的である「散歩道」として捉えられると、今まで見えていなかった美しさが現前してきます。
道端に咲くコスモスや、水溜りに光るオイルの虹色、季節の訪れを告げる自然の香り、列車のリズミカルなレール音、穏やかに響く鳶の鳴き声。
ちなみに、本来、自然の音が音楽であり、それを条理の原理によって殺したものが現在のドレミの音楽です(ジョン・ケージの項を参照)。

 

世界の終わり

サルトルの小説『嘔吐』の主人公ロカンタンの場合、この条理性の解体がさらに徹底しています。
世界の不条理を知ったロカンタンが、映画館でモノクロ映画を観る場面があります。
その映画作品が表現する対象(事物)の向こう側に意味を読み取れない虚無的な主人公は、ただそのスクリーンを「水底に映ったきらめく光の網の戯れ」として観ます。

もう、そこでは事物(コスモス、列車など)というものは、単純な知覚の要素に解体され(色、形体、配置)、抽象絵画や一部の先鋭的な印象派絵画のように、純粋な色と筆跡の乱舞になってしまうのです。
さらにこれを突き詰めると、ロカンタンがマロニエの樹の前で感じた嘔吐感に行き着きます。
それは、もう純粋な知覚の形式である色や形態すら瓦解した、無垢な世界(物自体)との邂逅です。
精神医学的には、人格の同一性の崩壊に近い危険な状態ですが。

 

社会-人からの離脱

結局、これらは程度の問題です。
目的論的な意味を剥奪することで、事物は事務的な道具存在から純粋な認識の美の対象になると言っても、これを突き進めれば、結局、世界は事物ですらなくなってしまい、美もろとも消失します。

厳密に言うと、目的のない歩行が「散歩」なのではなく、ある程度目的のない歩行が「散歩」なのです。
「散歩」というものの中に、すでに隠れた目的「無目的に歩く」という目的が含まれているため、もし、完全に目的を消失させれば、そもそも歩行(行為)というものが存在しえなくなります。

実存主義的な文学や映画や写真に存在する美意識とは、合理(条理)的な社会からドロップアウトした不条理者のまなざしが生み出す美です。
分かりやすいイメージを挙げると、初期の北野映画にある、漂うような意識の、薄いブルーの世界です。
あくまでも人間でありつつ、不条理と出会わなければならないのであって、完全な不条理と出会い、人格が崩壊してしまった精神病者の見る世界では、美などという概念がそもそも存在しえないのです。

 

おわり