カミュの『不条理の論証』(4)不条理な自由

(3)のつづき

<第四章、不条理な自由>

反抗という不断の革命

私はこの唯一明証的だと思われる不条理を保持し、生きていかねばなりません。
不条理の断絶を維持していくためには、絶えざる緊張感の中で、それを繰り返し更新していかねばなりません。
日常(世間)から出発し、明察をめぐる冒険をへて不条理を得た精神は、また日常へ還ります。
しかし、今度は覚めた視力と、日常に対する反抗の姿勢で戻ってきます。
この今リアルにある不条理の苦闘こそが、かれの祖国なのです。
その醒めた目に映るすべてのものは変容し、あらゆる問題がより先鋭化した形で見えてきます。
不条理の明察によって何かが解決するわけではなく、ただすべてが変容します。

ここで重要なことは、頑強であることです。
確実でないものはすべて斥け、自ら可知可能なものの中でのみ生き、そこに存在するものによって満足することです。
要は不条理から逃避せず、それを貫きその中で生きることです。

さて、ここまできてようやく本題の自殺の問いについて語ることができます。
不条理に目覚める以前の問題は、「生きるためには人生に意味がなければならないのか」を知ることでした。
しかし、覚めた視力の前では、「人生は意味がなければないだけ、人はそれだけ一層よく生きられる」というように変容します。

ひとつの経験を生き、それを運命にするためには、その経験を余すことなく受け容れる必要があります。
意識によって絶えず不条理を正面から受け容れ、それを運命として生きることです。
不条理の対立や葛藤を否定すること、そして意識的反抗を破棄することは、問題を回避することです。
いわば人生とは不断の革命なのです。
不条理は目を背けた瞬間に死んでしまいます。
唯一筋の通った哲学的姿勢は反抗です。
反抗はつねに世界を問題にし、危機が人を自覚的にするように、形而上学的反抗は緊張感を持って意識を経験全体にゆきわたらせます。
それは、人間がつねに自己自身とその人生に対し、自覚的であることです。
それはのしかかってくる運命を自分自身の責任で受け止めることであり、運命に自分の人生を従わせるような諦念ではありません。

不条理における自由

ここで不条理の経験が自殺とは真逆のものであることに気付きます。
自殺は反抗とは真逆の「受容(あきらめ)」です。
飛躍が反抗の果てに起こったように、自殺は反抗の果てのギリギリの限界点であきらめ受容することです。
意識的であり続け反抗を貫くということは、こうした自己放棄とは正反対のあり方です。
不条理とは、孤独な努力によってなされる極限的な緊張状態です。
反抗とは、自分の唯一の真理である不断の挑戦のことです。

不条理を生きる人間には、形而上学的な自由の議論などどうでもいいのです。
私の行為が自由かどうかを知るには、私を超越した高次の存在者の視点が必要です。
しかし、そもそも、この場所で今まさに生き、飛躍を拒否する私にとってはそんな階層の観念などありません。
私にとって自由とは、単純な社会的自由、囚人や管理社会の中で生きる個人が思い描く自由の観念以外のなにものでもありません。
それは端的に、精神と行動の自由をさしています。

不条理は永遠の自由を得るためのチャンスを消滅させます。
しかし、逆にそれによって精神と行動の自由を人間に返還し、火をつけます。
不条理によって未来と希望を剥奪されることによって、人間の自由な行動の可能性が拓かれます。
一般的に人は、未来の目的や希望を持ち、その計画に従って人生を見積もり、行動しています。
それを自由と思い込み生きているわけですが、ふいに不条理に出会ったとき、あらゆるものに意味があるように振舞っていた自分の人生が、根底から揺り動かされます。
いつ死ぬかも分からないという不条理性が、それらを否定しさるのです。
ある目的や希望に向かうということは、一種の自由への信仰、いわばありもしない永遠(未来は確実に存在するという期待が生む幻想)を信じ込むことを前提としています。

しかし、不条理と出会い、そこから目覚めた時、自分が今まで自由という公準(証明されてはいないが皆に認められている仮定)に縛られ、その幻の上で生きていたことに気付きます。
私は、自由であると思い込みながら、その実、自由によって束縛されていたのです。
自分の現在の行動は、未来の目的を達成するための従順な遂行であり、それは自分の自由(主体的に目的を立て行為選択すること)の奴隷であるということです。
例えば、立派な父親を目的とする人間は、現在の自己の行動を、父親としての振る舞いに束縛します。
希望や目的を持つということは、自分の人生を秩序付け、人生には意味があると自分で自分に言いきかせることであり、それは自分の人生を自分の先入観や社会的常識という升目の中に押し込んでいくことです。
そしてそれを人は自由と思い込んでいます。

明日というものはない、この自覚に人間の真の自由の根拠があるのです。
その自由を明確にするための比較対象として、自己放棄による自由を挙げてみます。
それは神や運命に身を預けることによって得る永遠の安心です。
因果の車輪と同化することによって、あらゆる煩いが解消されます。
しかし、これはただ自由だと本人が感じる主観的なもの「自由の感じ」が得られるだけであって、精神と行動において自由なわけではありません。
むしろ奴隷が決して叶わぬ精神と行動の自由を諦めて、もう主人に反抗することをやめることによって得る、麻酔薬のような幻想の内にある自由です。

それとは逆に、不条理な人間は、自分の内部にある緊張感以外のものからは、すべてにおいて解放されてます。
意識への回帰によって、日常的な眠りから脱却し、精神と行動における自由を得ます。
自分の人生に対し、自分は異邦人となって人生を作っていき、恋人を見るような親密な目を捨て、鳥瞰的に人生を眺めること、それが解放の原理です。

死を前にしてもろくも崩れ去った自由という錯覚に取って代わる、この新しい解放。
それは、喩えるなら、処刑の日の明け方に死刑囚が感じる、自分の鼓動以外に対する極度の無関心と、崇高な行動の可能性に似ています。
真白な雪の上を歩くような、無垢な自由の感覚です。
こうした状態が、唯一、人間の心が純粋に経験し生きることのできる自由の原理です。
このとき彼は、このような宇宙で生きることを肯定し、慰められることの決してない人生を、頑強に行動によって証してゆくことを決意します。

透明な熱情

目的を持つことによって生および人生に意味が生じるということは、つねに自分が或る価値のヒエラルキー(階梯、尺度)を選択することを前提としています。
では、意味の階梯を昇ることを拒否する不条理の人間の生とは、一体どんな意味を持つのでしょうか。

意味や価値を問うのではなく、反抗という均衡の継続のみに集中する不条理の生においては、経験の質的な観念は透明にされ、量的な観念のみが残ります。
そこにおいては、「よく生きること」ではなく、「より多く生きること」が主題となります。

もちろん、経験の量というものは単純に寿命の長さに比例するものではなく、経験を意識化し受け取る側の問題でもあります。
自分の生を、反抗と自由の生きた感覚を、可能な限り多量に感じ取り、可能な限り多く生きることです。
そして、明晰さがすべてを観るとき、価値の階梯など無意味なものでしかありません。
不断に意識の目覚めた精神が向かい合うこの現在というものの経験の連なりが、不条理な人間の生の理想と言えます。
「日雇いの郵便配達夫も、その熱情が等価であれば、征服者にも匹敵しうる(引用)」のであり、意味や価値の階梯などではなく、経験に対してどれだけ熱情を持ち、明晰かつ真剣(誠実)に向き合えるかということが重要なのです。

以上のように、不条理から、反抗、自由、熱情という三つのものを帰結しました。
意識を活動させることによって、死を誘う不条理を、生の基準に変えることができるのです。
こうして私は、明確に自殺を拒否します。

反抗が生を価値あるものたらしめる。ひとりの人間の全生涯につらぬかれたとき、反抗はその生涯に偉大さを復させるのだ。偏見のない人間にとっては、知力が自分の力をはるかに超える現実と格闘している姿ほどすばらしい光景はない。人 間の倨傲を示すこの光景は比類のないものだ。いかに貶そうとその価値を減ずることはできないだろう。精神がみずからに命じるあの規律、すみずみまで鍛えあげられた あの意志、あの毅然と向きあってたじろがぬ姿勢、それらには独特ななにものかがある。現実の非人間性が人間の偉大さをつくるのだから、そうした現実の力を弱めることは、同時に人間自体の力を弱めることだ。ここでぼくは、さまざまな教義・学説がぼくにいっさいを説き明かしてくれるとき、なぜ同時にぼくの気力を挫いてしまうのか、その理由を理解する。そういう教義・学説のたぐいは、ぼく自身の人生の重みを取除いてくれるのだが、じつはその重みはぼくがひとりで担ってゆかなければならぬのだ。(カミュ著『シーシュポスの神話』清水徹訳より)

アランは言う、「祈りとは思考に夜が訪れたときになされるものだ」と。神秘家と実存哲学者たちはこれに答える、「それにはまず、精神が夜に遭遇しなければならない」と。なるほどそうだろう、しかし、その夜が、眼を閉ざしたときに、人間の意志だけによって生れる夜であってはならない、 精神が、みずからそこに溶けこもう として生じさせる暗い閉ざされた夜であってはならない。精神が夜に遭遇しなければ ならぬとすれば、それはむしろ、あくまで明知を失わぬ絶望という夜、極地の白夜、精神が目覚めている夜であってほしい、そうした夜からは、やがておそらく、あらゆる対象を知力の光のうちにひとつひとつくっきりと描きだす、あの白く無垢な明るさがさしのぼってくるだろうから。この段階にいたって、均等関係は情熱的な理解に出会う。そのときは、実存哲学的飛躍を裁くなど、もはや問題にさえならぬ。実存哲学的飛躍は、人間のさまざまな態度を描いた古い古い壁画のなかに戻ってしまう。(同上)