カミュの『不条理の論証』(2)不条理な壁

(1)のつづき

<第二章、不条理な壁>

不条理の感情

深い感情というものは、その人の思考や行為や些細な習慣の中にまで現れ、その人の中にひとつの世界観(小宇宙)というものを作り出します。
嫉妬の宇宙や高邁の宇宙などという様に、人それぞれが持つ、ひとつの精神的態度です。

不条理性の感情というものは、ふいに襲いかかってくると同時に、その姿を具体的にとらえることは困難です。
しかし、例えば、他者の内面というものは、私にとっては未知のものであり続けるにしても、現実的には目の前に現れる現象(他者の挙動や他者の生み出すものによって、ある程度その人の何であるかを限定し、評価することができます。
それと同様、分析困難な不条理性の感情も、知性で捉えられる範囲内でその現象を捉え推論し、その宇宙を描き出すことができます。

不条理の感情というものは、行為や思考のあり方の中から間接的には捉えることができます。
真の認識は不可能であったとしても、外見を数え上げることによって、その感じ(風土)をつかむことです。

不条理の発見

何気なく流れる日々の中で、ある時ふいに「なぜ」という人生に対する問いが浮かんでくると共に、日常生活という舞台装置が崩壊し、ある意識の目覚めが起こります。
その不条理の気付きに続く行動がどうあるのか、習慣的な動作の繰り返しである日常生活への回帰なのか、それとも実存への決定的な目覚めなのか。
そしてそれが目覚めなのであれば、それは自己再建か自殺かのどちらへ決着するのか。
日常の生の倦怠とは、不条理の問題を自覚する前触れ、何かがおかしいと感じるための兆候なのです。

日常的な人間は、時間(未来)を頼りにしながら生きています。
「明日があるさ」「いずれ分かるさ」などとと言い、明日という希望を臨みながら、今をやりくりしています。
しかし、ある日、自分の年齢を反省的に見る年になると、もう若くないと、自分の人生の時間の放物線における自分の位置を確認し、それを怖れ、時間は敵となり対峙してきます。
時間に支えられていた私は、今度は私の方で時間を支えなければならなくなります。

次いで、外部世界というものがいかによそよそしく、自分の世界のものとして拾い上げるには、不可能なほどぶ厚いものだということに気付きます。
慣れ親しんだ風景は、私に着せられていた意味のヴェールを脱ぎ、のっぺりとしたよそよそしい非人間的なものとして横たわります。
他者の動作は意味を失った機械仕掛けの人形の動きようで、なにゆえにその他者は生きているのかが分からなくなります。
この世界の生(なま)の姿に感じるめまいと、嘔吐感(サルトル)。
世界は世界自体へと戻ってしまい、私の想像によってこしらえた秩序世界である楽園(現実生活)は失われます。
残るものは不条理な世界の厚み(深淵)と奇怪さ、そしてそこにぽつねんと残される異邦人としての私だけです。

世間の人々が死に対し、知らないふりして生きているのは、そもそも「死」という経験が存在しないからです。
死ぬ瞬間に人の意識はなくなるので、死は決して経験できないものであり、せいぜい他人の死についての経験を考えることができるだけです。
しかし、それは哲学的観念としての死であり、死の代用品に過ぎず、本物だと思わせる力はありません。
人を撃つ死の恐怖は、死の数学的側面(いわばカウントダウンの恐怖)からきます。
魂についての美しい論証にも、この現実が反証します。
この死という予測不能だが確実にやってくる宿命の破滅的な側面が、人間に虚無感をもたらします。
そしてこれこそが、不条理という感情の本質的な構成要素となっています。

しかし、重要なことは別に不条理の発見ではありません。
それはあらゆる人間が見つけ、日々、報告しているものだからです。
関心を向けるべきは、そうした発見からもたらされる結果です。
その発見によって、自ら意志して死ぬべきか、一切に反して希望に生きるべきか。

世界における人間のあり様

精神の第一の働きは、真なるものと偽なるものを区別することです。
しかし、思考自体が思考の真偽を省察する時、循環論の渦巻きの眩暈(めまい)に吸い込まれて自己を失ってしまいます。
デカルト的懐疑や胡蝶の夢のように、自分の意識が現実(真)か夢(偽)かを問う時、自己言及的な決定不能の虚無の眩暈にとらわれます。

理解するとは、対象や経験を自己に統合するということです。
不分明なものを明晰にし、自己のものとすること(統合)によって、自己の同一性と世界の安定性を確保します。
世界を理解するとは、世界を人間的なものに描きなおし、世界を人間が理解できる印で埋めることであり、またそれへの本能的な欲求です。
人間の神は人間の姿を、猫の神は猫の姿をしているように、それぞれの持つ世界(宇宙)はまったくの別物であり、人間のいかなる思考も、すべて人間の形態をしているのです。
現実の理解を仕事とする精神は、あらゆる現実を思考の言葉に還元しない限り、満足しません。

もし、精神が、現象という幻を要約し、それをまとめうる永遠(普遍的)なものを見出すことができれば、人は精神の幸福について語ることができるでしょう。
しかし、あらゆる人間の人生劇を生み出すために基本的な働きをする、この統一体への郷愁、絶対への本能的欲求は、決して満たされることはありません。
なぜなら、この統一体「一者」を私が認識する時、この一者からあぶれ出る自己(認識する精神)という余計なものが必ず存在し、それが「一者」を瓦解させる「多者」を必然的に生み出すという矛盾の渦に墜ちてゆくからです(先ほどの虚無の眩暈と同様)。

人は「人間は死すべき存在である」という、本当に感得すれば人生をひっくり返すような観念を持ちながらも、それを知らぬふりして生きています。
それは人間の精神構造にある種のズレと乖離があるからです。
人は、「知っているつもりのもの(明知の姿をした無知)」と「実際的に本当は知っているもの(無知の姿をした明知)」を同時に持っています。
精神が実際に動きもせず机上で思い描く不動の世界では、一者が世界を統合しますが、いったん精神が少しでも現実の中で動き出すと、その知っているつもりの平安な世界はひび割れ崩れ落ち、リアルな世界が露呈します。

破ることのできない壁

実際、人は何かを「知っている」と確信することなどできるのでしょうか。
確かに私は目の前にキーボードがあることを、確信しているように思えます。
しかし、その「確信している私」を私自身がとらえようとした時、私はそれ(確信している私)を確信できません。
がんばって自分が自分に対して持っている解釈と、他者から与えられる私に対する解釈を無数に集めて総和したところで、それはキーボードと同じレベルの確信であって、なんら自分の確信には結びつきません。
自分は確かに存在しているという確実さと、この自己の確実さを確信しようとしても確信しきれないことの間にある深い溝は、けっして埋められることはありません。
永久に、私は私自身にとって「異邦人」であり続けます。
「汝みずからを知れ」とは、自己を自己によって統合しようとする統一性(一者)への郷愁であるわけですが、人間にそれは許されず、故郷なき異邦人としてさまようべく運命付けられています。

草のにおいや樹の幹の荒い肌触り、夕日の光をしみじみと感じる時、世界は否定しようがないほどその存在を主張します。
しかし、この世界の確実性を、その世界を私が本当に所有しているかの確実性を、確信しようとして自分と向き合った時、すべては不確実性と懐疑の波にさらわれていきます。
また、世界を統一性と確実性によって所有しようとする科学の営みは、単なる仮説の更新として(クーンおよびポパーの項を参照)、万華鏡のように刻々と変化していきます。
世界を原子の比喩に還元する壮大な詩作の中で、人は世界を「知っているつもり」になるのです。
自然科学の諸法則もある限界までは有効ですが、その限界点を越えると、ぐるりと反転し、その法則自体に対立し、不条理を生じさせます。

そんなものより、いま私が手にもつコップの冷たさの方が、より世界について多くを教えてくれます(現象学の項を参照)。
だからといって、世界のすべてを手で撫でまわって(現象の総和)も、世界についてより一層理解できるわけではありません。
結局、人は「確実ではあるが何も教えてくれない叙述(実体験)」と、「何かを教えてくれると称しながらそれ自体少しも確実ではない仮説(科学)」との間にはさまれて、世界(の確実性)からも断絶されます。
人間は自己とも世界とも断絶した「異邦人」なのです。

不条理を生きる誠実さ

そんな人間が平和を得るためには、知ることと生きることを拒否するしかない状態に陥ります。
統一や帰郷への本能的な欲求を持ちながらも、絶対に破れない壁の前に跳ね返されます。
希望を持った瞬間、絶望が同時に出現するよう運命付けられ、人は無関心や諦めや心の麻酔による毒のこもった平和(ニーチェの批判する消極的ニヒリズム、宗教や観念論など)を求めるようになるのです。

それは世界が不条理だということではなく、ただ世界は人間の理性を超えており、必然的に拒絶されるものであると同時に、人間の奥底に明晰と合理への本質的な強い欲求が存在するという、相対峙するという状態についての不条理なのです。
人間と世界をつなぐ唯一の絆こそが、この不条理というものなのです。
この広い宇宙の中で私が明晰に識別できるものは、この事実だけです。
この唯一確実なものを正視し、維持し、それに基づいて自身の行動を規定し、そこから生まれる帰結を受け取らねばなりません。
誠実な生き方とは、こういうことです。

合理主義に対する非合理側の批判の矢は、有史以来延々と繰り返し放たれ続けています。
それでも飽くことなく前進する理性は、その有効性を証明しているというよりは、理性の欲望の激しさを物語っているのです。
これが統一への呼びかけと、不可能な絶壁の前に引き裂かれた人間の情念のあり様です。

しかし、現代ほどこの理性への攻撃が激しかったことはないでしょう(たぶんプラトン以前の古代ギリシャまで遡ります)。
キルケゴール、ニーチェ、フッサール、シェストフ、ヤスパース、ハイデガー、彼らは理性の無力を前にして覚醒した精神による探究者たちです。
このような限界にまで到達し、覚醒した精神は、いかなる判断をくだし、いかなる結論を選ぶのかを精査します。
それにより、自殺に対する回答があらわになるでしょう。

(3)へつづく