カミュの『不条理の論証』(1)不条理と自殺

<第一章、不条理と自殺>

自殺の考察

哲学上の重大問題は自殺のみです。
人が生きるべきか死ぬべきかの根本問題に尽きます。
また、同時に哲学者は自分の身をもって自身の哲学を体現しなければ嘘になります。
問題の重要度を測る基準とは、それが引き起こす結果と行動です。
例えば、宗教裁判で脅されて簡単に自説を撤回する、ガリレオの問題「地球と太陽、どちらが回転の中心か」など、結局本質的にはどうでもいいものなのです。
多くの人々が、人生は生きるに値しないと言って死んでゆき、多くの人々が、生きる理由を与えてくれる幻想のために殺し合いをしています。
そんな人生の意味の問題こそ、差し迫った最重要の問題なのです。

ここで扱うのは、社会現象としての自殺ではなく、個人の思考と自殺の関係です。
自殺は個人の心の内部で徐々に進行する働きです。
例えば、それは、妻を亡くした男が5年後にピストルの引き金を引くまで続く侵食作用であったりします。
その実存と向き合った明察から、脱出(死)をはかろうとする心の動きと過程です。

多くの場合、自殺の原因というものは、その人の中に無数にあり、決定することは難事です。
それまで積もり積もっていた様々な疲労や怨恨が、些細なことを引き金にして、一気にその人を押しつぶすことがあります。
5年前に妻を亡くしたことと、昨日仕事で失敗したことの、どちらが自殺の原因かなど決定不能です。
しかし、死の原因の因果的な足取りをつかむことは困難であっても、自殺という行為そのものの一般的な形態や構造を、この行為自体から抽出し記述することは可能です。

自殺とは、人生は「苦労するまでもない」というひとつの告白です。
生きるために世の中から要求される様々な行為、生存に不可欠というよりは社会的な習慣といえるそれら行為の虚しさを、認めたということになります。
時に生物としての生存に必要な睡眠すら奪ってしまう、この虚しさの感覚とは、祖国を奪われた「異邦人」の意識であり、親しみの世界とは反対の宇宙の暗闇に放り出されたような孤絶の感覚です。
これがまさに「不条理」の感覚です。

不条理な論証

行動とは、その人が本当にもつ信念のあらわれです。
行動や態度にあらわれない思想や信念は、嘘や虚飾です。
だからもし、生存の不条理を確信するなら、それが行為(自殺)として現れてくるはずです。
多くの場合、それら思考と行為は矛盾しており、むしろ生に意味を与えた者が自殺し、生に意味を与えることを拒んだ思想家たちが生きながらえたりします。
自己の論理を貫く者は稀なのです。
ご馳走をいっぱい並べたテーブルで禁欲や自殺を説いたショーペンハウアーを人々は笑いながら、その実彼らも同類なのです。

この自殺に関する思考と行為の矛盾は、一体何が生み出すのでしょうか。
それは生身の人間が生に執着することが、世界の悲惨を判断する思考よりも強い何かを持っているからです。
思考の習慣よりも生きる習慣が先行しており、この差は決して縮めることはできません。
いわば精神が死の前に人間を連れ出しても、身体はひらりと「体をかわす」。

〔少し分かりにくいので解説を入れます。思考と身体(行為)が一致している物や動物と違い、人間は思考と身体(行為)が分離していることが特徴です。例えば、思考ではスマホ依存がよくないと分かってはいても、そう簡単に止める事はできません。なぜなら、身体にしみ込んだ習慣や布置(ライフスタイル)が先行し、それに思考が追いつくには、かなりの時間と努力が必要だからです。生きることに対しての身体の習慣は、もっと強固であり、先天的なもの後天的なもの共に、それを思考の習慣によって馴致していくのは至難の業です。突発的な自殺は、一気に思考が身体に追いつき合致したのではなく、その追いつくことのできない差に絶望し、将棋盤ごとひっくり返しただけのはなしです。スマホを物理的に破壊しても、禁欲を目指す僧が自分の男性器を切り落としても、思考と身体が合致した訳ではありません。〕

これらを考えると、そもそも本質的な問題は、生存の不条理性が、希望をもつことや自殺することによって、人をその絶望から逃避することを導くのかということです。
いわば不条理は死を命ずるのか、ということです。
それは自殺にいたるまでの一貫した論理は存在するかという問いでもあり、それを私は「不条理の論証」と名付けます。

多くの思想家も不条理までたどり着きはしますが、それを前にしてすぐさま脱出を試み、最も貴重なものを放棄してしまいました。
真に重要なことは、この不条理の中に可能な限り踏みとどまり、この奇怪な化け物を明晰な観察によって描き出すことです。

(2)へつづく