パスカルの『パンセ』

哲学/思想

気ばらしと逃避

131
仕事も娯楽もなく、情熱も精神の集中もない完全な休息状態ほど、人間にとって耐えられないものはない。その時人間は、自分の空虚と寄る辺なさと無力に直面し、心の奥から、憂い、絶望、恨み、悲しみ、苦悩がわき出してくる。
129
人間の本性は、活動にある。完全な休息は死である。
169
人間は自己の悲惨が回避されえないものだと知った時、もうそれ(悲惨)については考えずにいることが得策だと思いついた。
139
およそ人間の不幸というものは、退屈が生み出す。満ち足りた有閑人にやる事がなくなり、じっくり考える時間が与えられれば、老いや病気や事故や死や没落、そして自分の存在の無を想像し、怯え不安になる。
そこで孤独の中で考える時間を与えないよう、気晴らしというものが必要になる。賭け事、スポーツ、社交界、戦争といったものが求められる。別にお金が欲しくて賭けをするのでも、獲物が欲しくて狩猟するのでも、彼女が好きで恋をするのでもなく、ましてそれに幸福を感じるためでもない。ただ、考えを逸らせ気をまぎらわせる「せわしさ」を求めているのである。人間が騒がしさや飛びまわることを好み、独房が恐ろしい責苦となるのは、そういう理由からだ。しかし、彼ら自身は、自分達が求めているものが獲物ではなく、狩猟そのものだということを知らない。
自己の悲惨や虚無を垣間見た時に生まれた、気晴らしや熱中を志向するひとつの本能。それとは逆に、静かな安らぎの中にある本質的な幸福を求める本能。しかし、安らぎを成就しても、今度はそれに耐えられなくなり、気晴らしを求める。人間はこれら二つの間を揺れ動いているうちに、人生は終わる。人間はとにかく自分を騙すことが必要なのだ。自分で熱を上げる理由を勝手に作り出し、自分ででっちあげた対象に向かい、自分の欲望や感情を掻き立てる。
143
人は子供の頃から、将来の名誉や財産や人脈を大事にするよう教えられ、様々な仕事と勉強に追われ生きる。何かひとつでも欠ければもう幸福になれないと言い聞かせられ、休む間もない。しかし、時に、「それは人間にとって本当に幸福なことだろうか」と疑問に持つ人がいる。ならば彼らからその仕事を奪ってみればよい。そうすれば彼らには自己の存在の虚無と向き合うという、さらなる不幸が待ち構えているということに気付くだろう。
464
人間は、幸福は自己の外に求めなければならないものだと、直感的に感じている。別に外の対象が情念を煽り立てるわけでもなく、ただ、自己の内の情念によって外へと押し出される。
465
ストア哲学は「自己の内に帰りなさい。そこにこそあなたの本当の安らぎがあるだろう」と言い、世俗の成功者は「外へ出なさい。気晴らしによって幸福になりなさい」と言う。しかし、このどちらも人を病ます事になるだろう。幸福は私たちの外側にも内側にもない。私たちの外側でも内側でもある所にある。
425
人間だれしもが幸福になりたいという願いを持っている。戦争に賛成する人も反対する人も、一生懸命生きようとする人も、首をくくろうとする人も、その目的は変わらない。しかし、金や名誉や権力や時間や快楽や知識や健康や友人など、様々なものを手にいれ、人は幸せになろうとしたが、夢は手にした瞬間夢でなくなり、結局はすべて悲嘆に終わった。逃げ続けるオアシスの蜃気楼を追い続け尽き果てる旅人のように。
人間には幸福を願いながらも、それを果たす力がないという事実は、一体何を示すのだろうか。それは、かつて人間には真実の幸福があったが、今はもうその跡(しるし)しか残っていないという事実である(上記断章409参照)。今あるものからは得られないはずの幸福を、手当たり次第に自分の周りにあるもので代用し、必死に満たそうとする。失った真の幸福の変わりに、様々な奇妙なもの(昆虫、野良猫、元素記号、性体験、金塊、病気、戦争、自殺、等々)を神格化し、人はそこに賭けるのだ。
しかし、勘のいい人は、真の幸福が個人にしか所有できないような個別的なものの中にあるはずはないということに気付く。なぜなら、個別の外に不足が存在している以上、満たされる事はないからだ。真の幸福は減少することも失うこともなく、誰かと取り合うこともなく同時に所有でき、手に入ったとたん更なる欲望が生じるような不完全なものではない。
この自覚から、神にいたる信仰の道が開かれる。
430
これら人間の悲惨を癒す道は、人間の中にはない。哲学者たちは空約束だけして、結局、実現はできなかった。傲慢が神を見る目を曇らせ、欲望が人間を地上に縛りつけた。至福と人間を結びつけるのは、人間の本性によってではなく、悔い改めと恩寵によってである。神はつねに開かれている。心を尽くして求める者には十分な光が与えられ、そうでない者にはただ暗闇がある。

 

賭けと回心

421
わたしが正しいと認めることのできるのは、ただ、呻きつつも求める人だけである。
218
魂に関わる問題こそが、全生涯における一大事のはずだ。コペルニクスの学説など深く探求せずともよい。
233
無限に一を加えても、無限は何も変わらない。無限の前では有限は消失し無になる。人間の精神も神の前では同様だ。私たちは無限が存在するということに関しては知ることができるが、その性質を述語付けることはできない。例えば、無限数は、偶数でもあり奇数でもあり、2の倍数でも3の倍数でもあり、どんな性質も内容も与えることはできないのと同様に。だから人間も、神がどういうものであるかということに関しては不可知でも、神が存在するということに関しては可知可能なのではないだろうか。
しかし、例えば空間的な無限というものは、個々の性質や規定については限界付けられず不可知だが、広がり一般という根本的な規定があるため、存在としては知りうる。だが、これが神のように、すべての無限を包摂する完全な無限であれば、どんな規定(広がり一般、数一般、時間一般)も無になるため、そんなものが可知可能だと言えるだろうか。
この可能性の中で、私たちは「神が存在する」ということに賭けるべきだろうか。この賭けにおいて得られるものは無限の幸福であり、失うものは有限の幸福である。しかもその有限は無限の前では無に等しいようなちっぽけなものである。このローリスクハイリターンの賭けに乗らないのは、盲目的な情念によって小さな目先の財産にしがみつく、よほど非理性的な人間であろう。
神に賭け、この道を一歩一歩すすんで行くにつれて、得るものがいかに確実で大きいものか、そして賭け金としたものがいかに無に等しいものであったかに気付く。結局、自分は確実なものに賭けたこと、そしてこの賭けによって何も失わなかったということをやがて知るだろう。
267
理性の最後の一歩は、自分を超えるものが無限に存在することを認めることだ。理性はここまでたどり着けなければ、弱いものでしかない。
527
自己の悲惨を知らずに神を知ることは傲慢を生む。神を知らずに自分の悲惨を知ることは絶望を生む。悲惨を通して神を知ることが敬虔と希望を生む。
693
何の理由も知らされないままこの宇宙の片隅に生れ落ち、どこへ行けばよいのか、何をすればよいのか、死んだ後はどうなるのか、何も分からない悲惨な孤独の迷いの中で私が絶望している時、まわりの人間は刹那的な気晴らしにしがみついた。そんなものに夢中になれない私は、自分の見ているもの以外に、何か存在しているのではないかと考え、その徴(しるし)を探し求めた。
72
無限の宇宙の存在に比べれば、人間の生み出すものなど無に等しい超微細な粒子にすぎない。無限の宇宙は、中心がいたるところにあり、かつどこにも周縁が存在しない、完全な空間である。それを思うと、私たちの想像力ですら萎み、無力になる。ここにおいて地球や国家や町や人間の価値など、どれほどのものであろうか。
それとは逆に小さなものをたどって行っても、同様だ。小さなダニの血管や体液の一滴、さらにその構成物質を分解していくなら、すぐに想像力の無力にぶち当たるだろう。極少の微粒子にすぎない私の身体と同様の構造を、さらに微小な生物が持ち、その生き物たちは各々の視点から、私と同じひとつの宇宙を見ている。地球に比べればちっぽけな私が、それらの生物にとっては、地球のように大きな存在だ。私は宇宙のどこに居るのか、無限大と無限小の中でどこを占めるのかも分からない。私はその不思議さに驚き、恐ろしくなってくる。
無限に比べれば無、無に比べれば無限である中間存在。両極から限りなく隔てられ、始めと終りを知ることを許されない存在者。人間はすべてにおいて中間存在である。極端な高音域や低音域を聴くことはできいず、極端な光も暗黒も人を盲人にする。強すぎる快楽は快楽を与えられないことと同様、苦しみを生む。極端な真理は、極端な虚偽と同様に、人々には理解不能である。
人間というものは、広大な中間領域の波間に浮かぶ頼りないボートのように、あちらことらと揺れ動く。落ち着くことも留まることも許されず、手に入れたものはすべて流れ去る。人間は堅固な地盤の上に高くそびえる塔を築こうと試みても、地盤はぐらりと揺れ、大地の裂け目の深淵にすべては呑み込まれていく。
そんな人間の状況を見たとき、私が隣の人間より少しばかり真理の極に近い所にいたとしても、どれだけの価値があろうか。物事を余分に理解しているからといって、無限からは無限に隔たれていることに変わりはない。人生の年数を他人より余計に生きたところで、永遠の内では何の変わりもない。人はこの自分の状況を理解した時、世俗の悩みなどちっぽけなものであることを知り、安らかでいられる。

 

人間は一本の葦でしかない、自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、人間は考える葦である。これを押しつぶすには、全宇宙はなにも武装する必要はない。ひと吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、殺すものより尊いであろう。人間 は、自分が死ぬこと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからである。宇宙はそんなことを何も知らない。だから、わたしたちの尊厳はすべて、思考のうちにある。まさにここから、わたしたちは立ち直らなければならないのであって、空間や時間からではない。わたしたちには、それらをみたすことはできないのだから。だから、正しく考えるようにつとめようではないか。ここに、道徳の原理がある。(ブランシュヴィック347、田辺保訳)

 

おわり

 

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