パスカルの『パンセ』

哲学/思想

人間は考える葦である

本書の趣旨は、あの有名な「人間は考える葦である」という言葉に集約されています。
この言葉の後には以下のような意味のことが述べられます。
人間は吹けば飛ぶような一本の葦のように弱い存在であり、宇宙に比すれば無に等しい。
しかし人間というものはこの無力を自覚できるがゆえに尊い。
だから人間の尊厳は物的なものではなく理念的な思考のうちにあり、これを通路として立ち直らなければいけない。

まず、人間の現世の生活における絶望的な虚無の状況を徹底的に描写し、読者にその無力を自覚させ、それを梃子にして宗教的な回心を促すのが本書の狙いです。
そのため、私たちの日常の虚構性を容赦なく暴いていくのですが、それは一般的なニヒリズムのように自分の足場だけはちゃっかり残しておく詭弁術などではなく、自分の足場も含めすべて無に帰そうとする徹底したものとなっています。

以下、主要な断章の要約です(数字はブランシュヴィック版の断章番号、訳語は主に田辺保氏のものに依っています)。

 

方法

4
真の雄弁は雄弁を軽蔑し、真のモラルはモラルを軽蔑する。真に哲学をすることとは、哲学を軽蔑することである。
9
誰かの間違いを指摘しようとする時、その人がどういう視点から観ているかを顧慮しなければいけない。大抵、その立場から観れば真実として見えるのが普通だからだ。そういう時はまずその真実を認め、それと同時に他の視点が存在し、その面から見れば誤りであることを教えればいい。それは人間の認識の構造が生む必然である。
22
私が何も新しいことを言っていないからといって、非難しないでほしい。材料の並べ方が新しいのだ。おなじ言葉でも違った並べ方をすれば、違う意味(思想)をもつように、おなじ思想でも、並べ方を変えれば、全体の意味が別のものに変化するのだ。

 

現実の空しさ

308
王様が偉く見えるのは、王本来の力ではなく、王と共に無数の家臣や兵隊などが連想されるからである。習慣的な観念連合(連想)が生み出す思い込みでしかない。
436
人間は幸福をつかみたいと願う。しかしたとえ幸福を得たとしても、人間にはそれを保持する力が備わっていない。天災や病気や些細な出来事が、簡単にそれを破壊する。真理(学問)についても同様である。
149
通りすがりの街なら他人の目(評価)はさほど気にならない。しかし、しばらく滞在する場所であれば、尊敬を得ようと気にしだす。短い人生という時間において、どれほどのものが必要だろうか。
117
私たちの好き嫌いの起源、行為選択の起源とは、他人からの賞賛と蔑視の見込みである。人から褒められそうなものを選び好み、貶されそうなものを避け嫌うだけだ。
162
人生の空しさを知りたければ、恋愛をよく観察すればいい。個人の隠れた非理性的な情事というちっぽけなものが、王侯を、軍隊を、全世界を揺るがす。クレオパトラの鼻がもう少し低ければ、地球の全表面は変わっていただろう。
386
夢の中の経験は毎夜変化するので、それほど人間の心に影響を与えない。しかし、この経験に連続性が生じ夢がひとつに繋がったら、現実の人生と見分けがつくだろうか。 現実においても急な変化が起こると、人は「夢でも見ているようだ」と言う。人生とはいくらか変化の少ない夢にすぎない。
294
正義も法も、時代と場所によってコロコロ変わる。緯度が三度ずれただけで法体系が覆り、盗みも不倫も親殺しも徳に数えられる時代もあった。国境線の上で偶然出会った人と私は何の諍いもないのに、彼は私を殺す権利があると主張するのだ。
309
流行が趣味をつくるのと同様に、流行が正義をつくる。
326
大衆は、法律は法律だからこそ、それを遵守するのであり、その内容の正しさではない。正義に関しても同様である。
295
「この犬は僕のものだよ」「そこは僕が座る場所だよ」と、いたいけな子供たちが言う。「僕のもの、君のもの」ここに全世界における不当な専制と争いの縮図がある。
326
私の短い人生という時間は、無限に続く過去と未来という永遠の海を思う時、そこに呑みこまれ消えていく。そして、なぜこの場所この時がこの私に与えられたのか、何の理由も知らされないまま生き死んでゆく。通り過ぎていく日帰り旅行客の思い出のように。
101
もし、すべての人間が、お互いに裏で語っていることを知れば、この世に友というものはほとんど存在しなくなるだろう。
212
自分が所有するものは、すべていつか誰かのものとして流れ去る。
152
探究心など嘘である。人が知りたいと思うのは、それについて誰かに語るための見栄にすぎない。それを他人に伝える望みがないならば、誰も探検などしない。
298
力のない正義は無力であり、正義のない力は暴力である。前者には反抗する者が、後者には非難する者が出てくる。なので正義と力はひとつにしなければいけない。それには正しい者を強くするか、強い者を正しくするしかない。しかし、正義は議論の的になりやすく批判が容易で、力は問答無用の実行力を持つため承認されやすい。結局、正義に力を与えることはできなかった。なぜなら「お前より俺が正しい」と正義に力が反抗した時、なすすべがないからである。こうして正しい者を強くできなかったので、強い者が正しいものとされた。

 

人間の悲惨

82
「想像力」と言う人間の内にあるペテン師によって、「理性」は抑圧され支配される。それは人間に付帯的な第二の本性を作り上げる。幸福な人と不幸な人、健康な人と病める人、富める者と貧しい者、等々。理性的で偉大な学者が身を置くに十分な板の上に乗せられても、四方断崖絶壁に覆われた場にあれば、理性がいかに安全だと説き伏せても想像力の生む恐怖が勝り、蒼ざめ慄く。声色ひとつで真理が変わり、些細な愛憎が正義を歪め、ひと吹きの風にあちらこちらと揺られ翻弄される、理性という滑稽なもの。
172
私たちの頭の中は、未来の取り越し苦労と過去の後悔や追憶で占められている。自分に唯一属するかけがえのない現在は忘失され、自分のものでない時の中を彷徨う。私たちは少しも生きてはいない、人生を想像しているだけだ。
150
人間の心は虚栄心に満ちている。虚栄心に反論する者は反対することによって賞賛を得ようとし、それを読むものは読んだという名誉を得たがっており、今、これを書いている私も同じ願いを抱き、更にこれを読む方々もきっと・・・。
112
事物には様々な性質があり、心には様々な性向がある。物と心の一対一の関係で経験が生じるのではなく、そこには多対多の定めなきものがあるだけである。人は同じひとつの事柄にも泣いたり笑ったり、愛したり憎んだりする。
181
私たちは幸福を得ても、それを失いはしないかと憂慮する。幸福を享受しながら災厄から逃れる方法を見出そうとしても、それは永遠のイタチごっこの様なものだ。
332
人間は自分の分をわきまえる事ができない。強さ、美しさ、正しさ、裕福さ、賢さ、等、それぞれ別の領域のものなのに、それを他に拡張しようとする。「私は強いので愛されてしかるべきだ」「私は賢いので正しい人間だ」というように。自分の分際で他人の分際を侵略し、互いが衝突しあい、互いが理解しあうこともない。
389
人間は真理の確信を得たいと願いながら、知ることもできず、知りたいという望みを持たないこともできず、疑うことすらできない。
80
私の言動に対しての批判が私を苛立たせるのは、その言動に確信を持てていないからである。ぐらつく自信が、苛立ちを生む。
536
人間は、他人からバカだバカだと言われ続けると、自分でもそうかと思い込む。また、自分で自分にバカだと言い聞かせても、本当にそうだと思い込む。人間の主体性などその程度のものであり、できるだけ善良なコミュニケーションを持つよう顧慮すべきである。
414
人間は狂わずにはいられないものなので、狂っていないように見えても、他の狂気から見れば、やはり狂っているのである。
100
人間に無力と不完全さと惨めさを認めさせ、自己をなき者としようとするこの現実に対して、人は憎しみを抱く。しかし、変えることのできないこの真実に対し取る行動は、せめて自分や他人の意識の中で自己の欠陥を見せないよう心を砕くことだ。自己の欠陥を指摘されることも、認めることも、決して許さない。これが自己愛(ナルチシズム・エゴイズム)の本質である。
88
人は本質的に成長しない。ただ想像の語彙が変化しただけである。完成していくものは、同時に滅びていく。「彼は成長した、彼は変わった」などと言っても無駄である。彼は依然として同じである。
姿見に映った自分のお面姿に怖がる子どものように、大人は自分で被った社会の仮面に囚われる。
323
私とは何か。私が彼女を愛するのは彼女が美しいからであり、病気に罹ってその美しさが消えれば、もう愛せはしないだろう。私を愛してくれている人は私の知識を愛しているのであり、それが無くなれば離れていくだろう。愛すると言っても、その人の美点を愛しているだけのことであり、その人自身ではない。「私」とはどこにあるのか。ひとりの人間の実体を、抽象的に、どんな性質があろうとなかろうと漠然と愛することなどできるだろうか(M・ブーバーの項を参照)。だから、肩書きや職権をかさに着て威張っている連中を批判することなどできない。なぜなら、人が誰かを大切にするのは、ただ、その取って付けられた性質のために過ぎないのだから。
211
人間は人間という悲惨な者同士でつるんでいれば、それなりの気休めにはなる。しかし、互いに無力なので相手を助けることはできない。結局、人はひとりで悩み、死ぬ時もひとりだ。だから、それを自覚しながら行動していかねばならない。豪邸を立てることや着飾ることが、一体何になるのか。
210
人生という劇は、どれだけ美しいものであっても、ラストシーンは血みどろなのだ。最後には頭に土をかぶせられて、永遠の終幕である。
183
私たちは何も考えずに断崖の奈落(死)へ向かって駆けていく。断崖が見えないように、何らかのもので目隠しをしてから。
199
人間は鎖に繋がれた死刑囚のように、毎日まわりの者が引き連れて行かれるのを見る。いずれ自分の番が確実にやってくるのを知りながら。

 

人間の矛盾

381
年が若すぎても取りすぎても、正しい判断ができない。
考えが不十分でも考えすぎでも、固執する。
近すぎても遠すぎても、正しく観察できない。
物事の両極において最適な一点というものがある。
真理や道徳において、誰がそれを決められるのか。
327
知には両極がある。一方の端は自然的な状態の無知、もう一方は知を極めつくしたのち、自分は何も知らないことを悟る無知(いわゆる無知の知)。多くの人はこの中間におり、中途半端な知識で物知り顔に誤ったことを色々やってのけ、世界は乱れていく。
409
人間は自分の悲惨を知るがゆえに偉大だ。動物においては自然なことでも、人間においてはそれを悲惨と呼ぶ(例えば動物の共食いや子殺しは自然だが、人間の場合それは悲惨となる)。それは本質において優れたものであるはずのものが、堕落したということの証拠だ。位を退けられた王様でもなければ、自分が王様でないことを悲惨だなどと思うだろうか。
411
絶望的な悲惨の中にありながらも、人間には自分を高めようとする抑えがたい本能がある。
423
矛盾。人間は善を果たしうる能力があると同時に、大した程度でもない。人間は真理を知る能力があると同時に、それは不完全な真理である。人は自分を愛しつつ同時に憎み、尊重しつつ軽んじるべきである。人間は今こそ、自分の価値を正しく理解せねばならない。
148
人間は世界中に名を馳せ、遠い子孫にまでも知られたいと願う。そのくせ、自分の身近な数人の者にちやほやされれば、いい気になって満足する。人間は傲慢であると同時に空しい。
418
人間に、その偉大さを示さないで、下劣さばかりを見せ付けるのは危険である。同時に、偉大さばかりを示して、下劣さを見せないのは危険である。そのどちらも示さないでおくのは、さらに一層危険である。人間は自己を天使とも獣とも思ってはならない。
420
つけ上がるなら、おとしめてやろう。
卑下するなら、褒め上げてやろう。
私はあくまで逆らいつづける。
彼が、とうとう、悟るまで。
わけの分からぬ怪物のような己のさまを。
434
人間は混沌と矛盾に満ちた怪物のようなものである。人間は人間を無限に超えたものであり、自分では理解できぬ自分の真の有様を知れ。
437
真理を求めながら、人間が見出すのは不確実だけであり、幸福を求めながら、人間が見出すのは苦悩だけである。人間は得ることのできないものを求めずにはいられない存在である。
215
安全な場所では死を恐れ、危険の只中では死を恐れぬ、それが人間だ。
358
人間は天使でも獣でもない。不幸なことは、天使を気取ろうとする者が、獣に成り下がってしまうことだ。
213
天国と地獄の間に、この世でもっとも儚い中間的な存在者(人間)がいる。