ディオゲネスのシニシズム

人生/一般

自然(ありのまま)に生きる

そしてこの社会批判の先に見据えられているものが、人間にとって本質的な生のありようです。
ディオゲネスが白昼ランプを持って探す人間がここにいます。
それ以外は社会の虚構にからめ取られた人間ならざるものでしかありません。
自然に生きるといっても、ネイチャー(動物的に)というより、ナチュラル(人間の本性ありのまま)に近い概念です。

場所や時代によってコロコロ変わる、社会というものが提示する生き方に翻弄されるのではなく、普遍的な芯をもった人間の生き方の模索です。
目指されるのは、国民(ポリスの民)ではなく、世界市民(コスモポリタン=宇宙というポリスの民)です。

以下、自然な生に関する言動を要訳的に挙げてみます。

・「本来人間の生にとって必要なものは、神から容易に与えられているのに、豪華な菓子や香水のようなものによって、それを見えなくしてしまっている」

・哲学から何を得たかと問われて、「どんな運命に対しても、動じない心構え」と答えた。

・どこの国の人かと尋ねられて、「世界市民(コスモポリタン)」と答えた。

・ある若者が女のように飾っているのを見て、「君は自分自身を気遣いながら、自然本来の姿より劣ったものにしようとしていて、恥ずかしくないのか」と言った。(この時代のギリシャにおいて同性愛はむしろノーマルです)

・ある愚かな音楽家がハープを調律しているのを見て、「君は音楽の調和は求めるくせに、魂と生活の調和は求めないのだな」と告げた。

・死は悪いものかと問われて、「知覚できないもの(死の瞬間人の意識はなくなるので、死は経験できない)が悪いも何もない」と答えた。

・世の中で最も美しいものは何かと問われて、「直言」と言った。

・彼は寝食も性行為もすべて人前で行っていた。それらは人間の自然な営みであり、何ら恥ずべき行為ではないとして。

・彼の死が迫った時、死体は埋葬せず野ざらしにし、獣の餌にでもするよう命じた。

 

訓練、そしてよく生きること

自然に生きるというと、いかにも簡単なものに思われるかもしれませんが、社会の流れに逆らうようなこの生き方を採用するには、理性と身体のかなりの訓練が必要です。
そしてその訓練によってのみ、人はよく生きることができます。

・彼は夏には熱砂の上を転げ周り、冬には雪をかぶった彫像を抱きしめ、身体を鍛え上げた。

・彼は教育に際し、勉学の後は、乗馬、弓術、石投げ、槍投げをも指導した。それは競技選手向きの過剰な身体を作ることではなく、血色をよくし、身体の好調を保つための訓練であった。

・運命には意志を、法(ノモス)には自然(ピュシス)を、情念には理性を対抗させるよう説いた。

・彼が人間の彫像に向かって無心しているのを見た人に、何ゆえかと尋ねられると、「断られることを練習しているのだ」と言った。

・彼の言によれば、魂の鍛錬と身体の鍛錬という二つの鍛錬がある。そしてその身体の鍛錬をしていくうちに、徳の実践へ向かう動きを容易にしてくれるような表象が絶えず生じてくる状態になる。一方、魂の鍛錬は身体の鍛錬なくしては不完全なものとなる。なぜなら、すべて特質というものは、本来ふさわしいものの中に宿るからである。職人や競技選手や演奏家が、不断の訓練によってどんどん上達するように、人は身体と魂の鍛錬を積む事によって、いかに容易に徳(卓越した状態)に達するかということを説いた。

・事実、人生において何事も、鍛錬なしには上手くいかないのであり、この鍛錬こそが万事を克服していく力をもつ。人は無用な労苦ではなく、この自然にかなった労苦により幸福に生きるべきである。不幸とは愚かさのせいである。なぜなら、不幸な人とは、自分を不幸にするような物事(享楽的な生活)に快を感じるよう自分を習慣付けてしまった人だからである。それとは反対に、そういうものを不快に感じ、自然なものを快と感じるように前もって訓練しておけば、人は最も快適な生を送ることができるということを説いた。

・生きることは悪だと言った者に対し、「生きることではなく、悪く生きることが悪なのだ」と言った。

・哲学を学ぶ若者を見て、「素晴らしい、お前(哲学)が、肉体を愛する者達を魂の美しさに転向させようとしている」と言った。

・教養は、若者にとっては慎み、老人にとっては慰め、貧者にとっては財産、金持ちにとっては飾りである、と言った。

 

最後に

ディオゲネスの生き方を象徴するような逸話を紹介します。

・彼がクラネイオンで日向ぼっこをしていた時、アレクサンドロス大王がやってきて、前に立ちはだかり、「何なりと望みのものを申してみよ」と言った。それに対し、「では、日陰になるのでそこを退いてください」と返答した。

・アレクサンドロスが「お前は余が恐ろしくないのか」と問うと、「あなたは善ですか悪ですか」と問い返した。「むろん私は善だ」と大王が答えると、「なら、誰が善い者を恐れるでしょうか」と言った。

・「もし余がアレクサンドロスでなかったとしたら、ディオゲネスであることを望んだであろうに」と大王は言った。

 

(関連記事)ソクラテスの無知の知

(関連記事)森田正馬のあるがまま