ジェームズ・アレンの『原因と結果の法則』

人生/一般 心理/精神

<第一章、思考と人格>

「人は自分が思っているとおりのものになる」

自分の人格は自分の思考の完全な帰結です。
思考は種であり、行動はその花です。
無意識的(計画的でない)行動から、意識的(計画的)な行動まですべてです。
そしてその行動の結果として、喜びや悲しみなどの感情という果実を実らせ収穫します。

マインド(思考するという意味での心)で思うこと(考え)が、私の人格や行動を作り上げ、それは最終的にハート(感情という意味での心)を生じさせます。
私が悪い思いを抱けば、私は悪い行動をし、悪い人格となり、最終的にネガティブな感情(苦しみや悲しみ)を結果としてともないます。
だから人間は善い思考を持てば、最終的な結果として、幸せや喜びなどのポジティブな感情が得られます。

原因と結果の法則

この根本的な原理を「原因と結果の法則」と名付けます。
原因とはマインドであり、結果とはそれが生み出す行為、人格、環境、感情などです。
思考を正しく選択してゆくことによって、人間は神のように優れた人間になり、間違った使い方をすれば、動物以下の存在に堕ちます。
すべての人間はこの間のどこかに位置づけられます。

人間は自分の思考の主人であり、人格の形成者であり、人生、環境、運命をも作っていく創造主です。
どんな過酷で不利な状況にあっても、その状況をよく観察し、存在(結果)を生み出す法則(思考の法則)を把握すれば、よい方向へ流れを変えていくことができます。
自分の思考をよく観察し、コントロールし、考えを転換し、その考えがもたらす効果を見据え、原因と結果を関係付ければ、その法則は発見されます。
それにはダイヤを掘り出す鉱夫のように、忍耐力と実行力と、たゆまぬ試行と努力が必要となります。

 

<第二章、環境に対する思考の影響>

環境は自分自身が作る

人間は自分の心(マインド)という庭を耕し整え、誤った考えや役に立たない考えなどの芽を取り除き、すぐれた考えの芽を育まねばなりません。
そうしているうちに自分の中に「思考の法則」があることを発見します。
自分の外の外的環境は、自分の内の環境(心の庭)と似たようなものに成っていることに気付きます。
人格は環境や周囲の状況を通してのみ表現されるものであり、思考は環境の中に自身の人格を見出します。

しかし、これは鏡のような同時的で全的な反映ではありません。
散らかった部屋は、その人の心の無秩序を反映し、だらしない人格を表現している、というような同時かつ決定的な意味ではありません。
私を取り巻く環境というものが、私の内にある思考の要素と因果的につながっているということです。
仮に私の心と環境に齟齬があり、「場違いな場所」にいるとしても、その問題は自分があるべき場所へいたるためのステップであり課題としての齟齬なのです。

人間は環境の産物だと考えている限り、人は一生、状況の奴隷です。
しかし、環境は自分の心が生み出すものであると気が付きさえすれば、人は自分の人生の主人として生きることができます。

環境は心(マインド)の持ちようによって変わっていきます。
もちろんこれは認知の問題ではありません。
コップに半分入った酒を、まだ半分あると思って酒宴を楽しむか、もう半分しかないと思って悲しむか、人生も幸不幸もとらえかた次第、みたいな同時的変化ではありません。
そうではなく、自分の精神状態の変化に比例して、環境も徐々に変わっていくことです。
あくまでも原因と結果の法則であり、継起の時間を必要とするものであり、鏡像的な反映や認知のゲシュタルト変化のような、無時間的なものではありません。

引き寄せの法則

私たちは意識・無意識問わず、心(マインド)で思っていることやものを引き寄せます。
それを「引き寄せの法則」と呼びます。
人間はそれぞれの心のレベルにふさわしい環境を自ら引き寄せているのです。
思考は行動になり、行動の集積が人格と環境を作り、人格は人生を環境は運命とチャンスを作っていきます。

人が犯罪を犯したり、貧困に苦しんだりするのは、残酷な運命や辛い環境のせいではなく、心の中に育んだ悪い考えが生み出すものです。
豊かに耕された心を持った人間が、突然犯罪に走るなどということは起こりません。
もし、仮にそういうことが起こるとしたなら、彼の気付かないうちに悪い考えが心の隅で密かに育まれていて、それがある機会を得たとき、外へ飛び出してきたのです。
環境が人間を作るのではなく、人間の心のあり様が環境に現れてくるのです。

人間は生れ落ちた場所から、一歩一歩人生の旅を進めるうちに、心のあり様(強さや弱さ、正直さやひねくれ等の心の要素)が複雑にからみ合いながら、外に反映し、その人に最もふさわしい環境を引き寄せています。
思いが運命を引き寄せるなどと言うと、なにか「願えば叶う」というような非現実的な他力本願の受動性を感じさせますが、それとはまったく別物です。
人間が欲しいと願うものを引き寄せるのではなく、自分の心の状態にふさわしいものを引き寄せるだけです。
私は私自身の全責任において、自分の運命を作っていき、その結果を背負わねばならないという、非常に能動的で主体的な努力を必要とします。
それは環境に支配されないという主体的な自由であり、与えられる自由ではなく、自分に対する不断の変革的な努力によって勝ち取る自由です。

自分の心と向き合う

人間の内(心)と外(環境)が因果的につながり調和するものであるとするなら、人間に環境が敵対してくる状況とはどういうものでしょうか。
それは、外側で起こる望んでいないはずの「結果(環境)」に対応する「原因(心、考え)」を、自分の内側で養い作り上げているという矛盾です。
その原因となる悪い考えを、半ば意識的であれ無意識的であれ自己欺瞞的であれ持っており、それは必然的に結果(環境)を敵対的なものとして産出していきます。
私たちは外側の環境を何とか改善しようと必死ですが、自分自身を変えようとはせず、そのために自縄自縛に陥った状態なのです。

例えば、成功できないと日々愚痴をこぼしながら生きる人間は、一生成功することはありません。
なぜなら、その心の内に嫉妬や怠け心や卑屈な考えが育まれていることが、愚痴を通して見えるからです。
嫉妬という自己と他者を混同する未熟な心が在り、愚痴をこぼすことによってそれを具体的な行動の代替とし努力から逃げる怠け心が在り、自分を卑下し自分の可能性を自分で潰している卑屈な心が在る。
その心のあり方が必然的に不成功者であることを結果(環境)として決定付けているのであり、成功者になりたければ、それに見合うよう、心のあり方を変えていかねばならないのです。

もちろん、人の心も現実も非常に複雑であり、単純に目に見える環境だけから、その人の心を推し量ることはできません。
「彼は善人なのにひどい環境にある、彼は悪人なのに幸せな環境にある、だから人の心と環境は一致しない」と言う人もいます。
しかしそれはただ、私自身が人間や現実の複雑さを捨象し、勝手に思い込みで推量しているだけです。
善人に見える人の内にも悪い心はあり、悪人に見える人の内にも善い心はあります。
「私は善人だからこそ苦しむのだ」と思う時、一度その心の奥底を真摯にかえりみれば、そこには疚しさや怨恨や虚栄心などが悪い考えが見出せるでしょう。
その病的な悪しき心(考え)がその苦しみを生じさせているのであって、けっして善人だから苦しむのではありません。

心を変革する

これらの原因と結果の法則を知った上で、自分の人生を振り返れば、良かれ悪かれ自分の発したものと同じものが、自分に還ってきていたことに気付きます。
そして苦しみは、この存在の法則との調和に失敗していることの証しであり、その苦しみという徴(しるし)を気付きとして、私達は私の内にあるものを変革していかねばならないのです。
自分の心が調和していれば、喜びを生じさせる環境の中にいることができます。
環境は闘う相手ではなく、私の内の能力を発展させるための手段であり、よりよき環境を作っていくための土台なのです。

人間は普通、自分の心のうちを隠せるものだと考えていますが、思いはすぐに行動や習慣や生き方として具体化し、さらにそれが環境となって現れてきます。
例えば、恐怖や疑いの心は、弱く臆病で主体性のない生き方として外に現れ、失敗や貧しさや困難に満ちた環境を作り上げていきます。
勇気と信頼の心は、自由と決断力のある主体的な生き方となり、清く正直な心は、快活で勤勉な生き方となり、寛容な心は優しさとなって現れます。
喜びに満ちた環境というものは、善き結果に見合う心をもち、それが生き方として具現化したときに形作られます。

人間は自分の環境を直接に選ぶことはできませんが、自分の思考は自由に選択できます。
それによって間接的に、徐々に環境を作り変えていくことができます。
私を取り巻く世界は、私の心のあり方にしたがって、刻一刻と変化していく鏡のようなものです。

だから、あなたはなりたいと思う人間になるのだ。失敗する人間は、それは『環境のせいだ』と言い訳するだろう。しかし、あなたはそんなことには耳を貸さない。あなたは完全に自由だからだ。…あなたは偶然などありえないと退け、専制的な環境をも変える力を発揮し、意欲的にことに取り組む。…魂が目覚めて率先し始めれば、神もあなたの意志に従うだろう。(ジェームズ・アレン著『新訳 原因と結果の法則』角川文庫)