メルロ=ポンティの『幼児の対人関係』(3)人格特性

哲学/思想

 

(2)のつづき

 

ねたみと共感

幼児に特有の人格特性も、この自他の癒合性から自他の分別を伴う客観空間の確立までの成長途上において見られる現象です。

「ねたみ」は、本質的に自分と他人の混同です。
他人が到達したものに到達することのみが、自己の目的達成だと思い込む状況です。
幼稚園などで、隣の子の所有するオモチャを欲しがり、それを訴え奪い取ると、すぐに捨て、また別の子が遊ぶオモチャを欲しがる幼児などが、その典型です。
自己のビジョン(視点)が確立されておらず、他人のビジョンに関係させて世界を規定しようとする、自他の未分化にある態度です。

成人におけるねたみも同様に、自己の成長の不十分さや退行などによって、自他の対照関係に自分を混交してしまう状況への回帰です。
嫉妬深い人は、自分の経験と他人の経験を切り離すことができず、自分は他人に篭絡されつつ同時に自分も他人を篭絡しようとする、いわば状況の中のすべての役を一人で演じようとする非常に不安定なパーソナリティーの状態です。

例えば、隣家が豪華な家に建替えたことを妬む奥様が、隣家の人々にサディスティックな嫌がらせをする時、その攻撃性は同時に自分自身にも向けられているのです。
あらゆる些細な兆候を集め、自分の苦悩や不安をかき立てようと思いめぐらせ妬みを作り出すマゾヒストでもあるのです。
サディズムとマゾヒズムが、コインの両面のように回転して、同じ人間の中にあらわれることは、精神分析の症例において明らかです。

「共感」というものも同様に、自他の未分化を前提とし、私が他人の感情の中で生きるという単純な事実です。
幼児特有の模倣行為は、他人による自己の籠絡であり、自己への他人の侵入です。
それは他者の身体動作を自己が引きうけることによって、自他をつなぐひとつのシステムです。
自己は他人の身体動作を真似ぶ(学ぶ)ことによってしか、他人そのもの(他人の内感)につながれないのです。
この模倣行為という基盤の中で、自己意識と他者意識が分化してくる時に現れるのが「共感」です。

 

人格の偏在性

主体の確立されていない自他の曖昧な前交通の時期において幼児の人格は状況に溶け合い、各状況それぞれの中でまるで別々の人格のように振舞うことになります。
未熟な幼児にとって家に居るパパと会社に居るパパは別の人であって、パパの前で机の上に乗って怒られ泣いたすぐ後にママの前でそれを再演しまた怒られて泣く私は、まるで別の私を生きているようです。
幼児は自分自身に声を出して話しかけ、またそれに応答しますが、それは大人が心の中で自分自身に話しかける反省とは意味も構造も全く違います。
幼児のそれは私が別の私に話しかけるという精神病患者に似た人格構造です。

幼児の人格構造が精神分析の概念や症例に酷似するのもそのためです。
自己に属するものを他者に押し付ける転嫁「投影」や、他者のものを自己のものとする模倣「取り入れ」、自己を統合する能力を失調したいわゆる精神分裂病的な自己の偏在性などです。
自己と他者の境界が曖昧であるということは、言いかえれば自己が偏在しているということです。
自分が隣の子をぶったにもかかわらず、自分が隣の子にぶたれたと言って本気で泣き出す幼児は、決して嘘をついているのではなく、それは主体の曖昧さから起こる現象です。
嘘をつくためには、主体の確立した自己反省の構造が絶対に必要なので、そもそもその段階の幼児に嘘をつくことは不可能なのです。

近代的な主体の確立によって生じたパースペクティブ(あるいは視点)の安定した知的なルネッサンス絵画に対立するものとして、不安定な複合視点の原始美術や幼児の絵画やピカソのようなラジカルな絵画がよく挙げられます。
しかし、それは近代の整った知的な絵画に対する、幼稚で未熟な混沌の絵画などではなく、リアルよりリアルな生の現実が描かれたものでもあるわけです。
写真のように描かれたリアルな絵画より、原始人や幼児の描いた絵の方がリアルだというと非常に奇妙に聞こえますが、「リアル」の認識というものが文化的な訓練の産物であり相対的なものであるということは、別の項であらためて述べます。

幼児自身の人格は同時に他人の人格なのであって、この二つの人格の無差別こそが転嫁を可能にするわけです。が、こうした人格の無差別は、幼児の意識構造の全体を前提とするものです。…それと 同じように、空間の癒合性とも言うべきものがあって、同一の心的存在者が空間の多くの地点に、つまり私が他人の 中に、他人が私の中に存在することになるのです。一般的に言って、幼児は、空間や時間を、相互に絶対的に区別される一連のパースペクティヴを含むような、「場」と考えることはできません。幼児は、空間が呈示されるばあいの射映とかパースペクティヴということさえ知らないので、さまざまのパースペクティヴが次々に現われては消えるだけであって、その一つ一つが物の同一性の性格を持つに至るわけです。…外的知覚を還元して、ただ一つの視点から見えている「もの」と考えること、 要するに対象のパースペクティヴ的与件というものは、もっと後の段階にならないと意識されないものなのです。したがってまた、象徴と、その指示しているものとの区別もまだできません。言葉と物とが絶対的に区別されているわけではないということも、もうこれまで何度も見たとおりです。
幼児にあっては、成人のばあいに象徴的意識と呼ばれているものが存在しないとか、「記号」とそれによって「指 示されているもの」とが融合しあったり、また物における時間的諸契機や空間的諸契機が融合しあっているということなどは、いずれも同じ事態を証言するものにほかなりません。(滝浦静雄訳)

 

三歳児の人格

幼児は3歳頃になると、自分の身体や思考を他人のものと混同したり、状況の変化にあわせて自己役割が変幻することもなくなります。
自分固有の視点があり、その私独自の世界のパースの中で自他を配置し、世界を統一的に構成していきます。
幼児が今まで生きていた直接的な感覚の与件は、主観的な経験として編集、再構成され、「私の世界」(と同時に「あなたの世界」)が生み出されます。
状況やそれを負う役割というものが如何に多様であっても、自分はそうした様々な状況を越えた「或る特定の何者か」であるということが分かってきます。

この主観の発達と共に自他の分別が可能になることによって、はじめて「他人の目」というものの意識が芽生えてきます。
ママの目を引くためにイタズラをしたり、ご褒美をもらうためにパパの目のある時にだけ良い子にしたりします。
他人の目に映る私と、内感の私を明確に区別し使い分けることができるようになるのです。
ここにおいてようやく環境と癒合した動物ではなく、社会という人間関係の中で生きるいわゆる人間らしさ(裏と表、公と私、嘘と誠、等)が子どもの中に生じはじめます。

ここにおいて前交通的なめまぐるしい他人の身近さの間に、他人との隔たりの障壁が穿たれるわけですが、それは前項でも述べたように、自己と他人に通底する中性的で客観的な地盤(客観空間)が整備されることによります。
勿論、それらはあくまでも並行して存続しており、健康で成熟した大人であっても、例えば愛のような形で、パースペクティブの相互侵蝕というものが起こってきたりするのです。