メルロ=ポンティの『幼児の対人関係』(2)鏡の中の世界

哲学/思想

 

(1)のつづき

 

鏡像の実在性

鏡像という象徴を通して客観空間というものを確立しても、自他の癒着した全体性の空間(身体図式)は破棄されるわけではありません。
それは客観空間という図を浮かび上がらせる地として、私たちの認識や行動を規定する隠れた条件として、存在し続けます。

人間は鏡の向こうの像が虚構であると分かっていながら、そこにある種の魂のようなもの(準実在性)を無意識的に感じており、それはまるで一種のアニミズム的な信念のようです。
例えば、自分が尊敬する人の肖像画を踏まされる時(踏み絵)、それが単なる細かい石の集積(顔料)であり、完全な虚構であるとわかっていながら、私達はそれを踏むことに強い抵抗をおぼえます。
それはいわば幼児が自他の癒着した前空間的な世界の中で、鏡像に実在性を与えていた「地」と、客観空間という「図」の葛藤です。
意識的な分別によって、実在の人物と虚像を明確に分け、客観空間にそれを配したとしても、無意識的な部分ではそれに抵抗するものがあるわけです。

 

癒合性

これは鏡像だけの問題ではなく、他者の問題にも関わってきます。
諸感覚が寄せ集められた収束の場としての主体というものが、私たち大人が一般的に考える感覚や身体のイメージですが、これは前項でも述べたように、あくまでも客観空間に基づいた、いわば知的な発達によるひとつの段階でしかありません。
前空間において生きる幼児は、外的知覚と内受容性の感覚を絶対的に区別しておらず、無差別と全体性の、一種の癒合性のなかにあります。
外的知覚である鏡像や他者の姿と、私の内的感覚はひとまとまりの身体システムとしてとらえられています。

客観空間に慣れきった大人の感覚では、この癒合性がちょっと分かりにくいで、一度想像して欲しいのです。
例えば、深海魚を一気に釣り上げると、からだが破裂してしまいます。
魚の身体は魚自身が形成していると思われがちですが、実際は周囲の海水(水圧)が押さえ付けるようにして成立しています。
外から押さえてくれていた水圧が無くなったことによって、タガが外れた桶のように、魚の身体はバラバラになってしまうのです。
主体である魚と、その環境である水は、ひとつの癒合的な全体のシステムとして成立しており、それを魚の視点から見た場合が、その魚にとっての「身体図式」のあり方です。

これは物理的な問題だけでなく、心や認識や感覚などの領域でも同じことが起こっています。
例えば、私がヴィトンのバックが欲しいのは、他者がそれを欲しているからであり、他者がそれに見向きもしないなら、私はそれに欲望を感じないでしょう。
私の欲望は私という主体が形成しているのではなく、私と他者という全体性の系(システム)の中においてのみ、成立するものなのです。

 

自-他の癒合

自他の癒合した世界の中で、鏡像(外観の私、他者の分身)と内感の私と現実の他者の区別は曖昧であり、これらはある種の同一性でつながります。
意識では違うと分かっていながら他者と同化する、感情移入の問題や、精神分析でいう投影や取り込みや転移の問題の基礎には、この癒合空間があります。

例えば、目の前の人がウメボシを食べて顔をしかめている時、それを食べているのは他者であると意識では完全に分かっていながら、無意識的に私も顔をしかめ口に唾液を溜めます。
目の前で嘔吐する人を見て、自分も嘔吐しそうになる感覚を抑えることは非常に困難です。
また、イライラした人は他者をもイライラした人にさせるように、他人の感情や身体的な態度が周囲に伝染することは、誰もが日常的に経験することです。

 

ジャック・ラカンの鏡像段階

これらの考察は、精神分析のラカンの鏡像説と一致します。
その理論を簡単にまとめます。

まず、身体的にも知的にも未成熟な幼児が、鏡の中に自分の像を認め、自らのものとしてそれを引き受ける時、幼児の中に根本的な変容が起こります。
鏡像を認める以前の幼児の世界とは、自他の境界も曖昧で、身体感覚も統一されていない、直接的で生々しい混沌の世界です。
しかし、鏡像が幼児に客観的な私の姿というものの可能性教える時、幼児の中に「私」という機能が生じ、以後幼児は「私」という主観をパースの基点として世界を捉えまとめていく事になります。
自分自身を見たことのない、自己が自己にへばりついた即自的な幼児に、自己を客観的に見る視点とその対象(鏡像としての私の身体)が与えられた時、反省的な自己の意識(我思うゆえに我あり)が生まれるのです。

自己自身の像の発見は、自己反省と自己認識を可能にしてくれますが、それは同時に人間特有の自己疎外のはじまりでもあります。
私はもう自分が直接に感じていた通りの私ではなく、私の像に私自身を奪われ籠絡されることになります。
生の現実性は、鏡像という象徴を介して、虚構(想像)的な現実性に取って代わられる事になるのです。
直接的に生きられている自我の上に、想像的に構成された自我が、強引に上書きされたような状態です。

私達はよく「他人の目が気になって自由に振舞えない」と言いますが、それは他者の目に映る私の姿(鏡像)に私が籠絡された自己疎外の状態です。
さらに根本的には「自己の目が気になって自由に振舞えない」のが人間であり、それは自己の目に映る私の姿(鏡像)に私が籠絡された自己疎外の状態です(精神分析でいう超自我-良心-の発動)。

動物のように直接的な現実に生きていた幼児は、鏡像を通して象徴と自己反省の機能を手にして、はじめて「人間」に成れるのです。
これは他者との共存可能性の開けであり、社会化の準備でもあります。
鏡に映る鏡像が私であり、かつ同時にそれが他人の立場で見た時の私であり、その象徴的な(鏡像としての)私が社会の中で(直接的な生をいきる)私を代理する存在であり、基体であると知った時、社会的な役割(人格-ペルソナ)が生じます。

 

シンボル(象徴)化

自己と環境の癒合した世界から、自他を分離する機能として重要なものがシンボル(象徴)機能です。
例えばチンパンジーの実験において、吊り下げられたバナナの下に棒や箱を置けば、それを使ってバナナを取ります。
一見これはチンパンジーが人間のように棒や箱を認識し、道具として使用する知能に見えますが、この棒が壁に立てかけてあったり、箱の上に他のチンパンジーが座っていれば、それを使おうとしません。
普通に置いてある棒や箱と、壁や他の猿と接した棒や箱は、同一物として受け取られていないのです。

動物におけるこの自己と物と環境の癒合した世界においては、別々の状況にあればそれは別々のものであって、この二つの別の環境内にある棒を同一の物だと認識するには、それらを客観的な次元に立って見比べる視点が必要になります。
様々な状況にある箱や棒を同じひとつのシンボルとして認識しないかぎり、壁と一体化した棒を使ってバナナを取ることはできません。
この複数の環境を関連付け、可能世界(例えば「箱の中の棒」を想像する)をも視野に入れることが出来る、特殊な機能がシンボル機能であり、それが人間を人間たらしめるものです。
いわゆる言語の誕生です。

 

(3)へつづく