シュールレアリズムとは何か

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シュールレアリズムの定義

シュールレアリズムのそのノンセンス(意味不明)さを抽象絵画の意味不明さと混同して、それらを同じ部類のものとしてとらえる人が時々いますが、基本的にまったく別物です。

シュールレアリズムはモチーフ(対象)として何が描いてあるかよく分かるので具象絵画です。
抽象絵画は円や三角や線や不定形など、抽象的すぎて対象として何が描いてあるかすらわからないため、抽象絵画です。
ピカソの絵は何が対象として描かれているか分かるので具象絵画ですが、かなり抽象化された要素も持つので、半具象、半抽象といったところでしょうか。
もともと美術様式のカテゴリーはアバウトで、分別する者に拠ります。

シュールレアリズムの意味不明さは対象と対象の関係性の意味不明さであって、そのありえない組み合わせ、論理的不整合性に感じるとまどいです。
「ブランコ」が「公園」というコンテクスト(文脈・背景)にあれば違和感はありませんが、朝会社に出勤してオフィスの扉を開けたら部屋の天井からブランコが吊り下がっていれば、非常にシュールです。
「オフィス」+「ブランコ」というありえない組み合わせが論理的に不整合であるために生ずる非・現実感です。

「硬い」+「時計」という整合性は、「やわらかい」+「時計」という不整合へ。
「革のトゥー」+「革のクォーター」というブーツの整合性は、「素足のトゥー」+「革のクォーター」という不整合として組み替えられます。
(画像左はダリ、右はマグリット)

 

なぜ意味不明にこだわるのか

私たちは意識において事物(対象)をとらえる時、それが論理的整合性をもつような形にして自身のもつ内面世界に組み込みます。
人間の自我・意識は自己同一性を保つため、不安定を嫌い安定を求める性質があります(未来においてもそうあるとは限りませんが)。
たとえ目の前に未知の意味不明の事物があったとしても、あらゆる方法でそれに論理的整合性をもたせ自己の同一的世界観の中に組み入れようとします。
未確認飛行物体が通りすぎれば、目の錯覚、天体現象、兵器実験、等々なんらかの合理的意味をそれに与えなければ気がすみません。

例えば、私たち文化人は映画を見るとき、暗黙のうちに習得した映画の論理にしたがって、スクリーンに次々映る事物を整合的に自己の中に組み入れていきます。
スムーズに物語を楽しみ、意味不明なことなどありません。
しかし、今まで映画を観たことのない未開人といわれる人々は、そういう映画鑑賞の論理的枠組みを持たないため、同じ映画を見せればパニックが起こります。
主人公の顔がアップになれば、首が斬られたと騒ぎ出します。
画面右へ出て行った登場人物がカットが変わって画面左から入ってくれば、その人間のありえない瞬間移動に驚愕します。
未開人の普段の論理的枠組みではありえない意味不明な組み合わせがスクリーン上で起こってパニックになっているわけです。

これが私たちがリアルな現実と思い込んでいる世界の正体です。
私たちは文化や社会に事前に与えられた非常に狭い論理的枠組みによって世界をとらえているだけです。
私たち文化人が当たり前に観ている映画を未開人が意味不明だと叫ぶのと同じように、私たちの抱く現実以上の現実(超現実-シュールレアリズム)を観て私たちは意味不明だと叫んでいるのです。

 

組み替えられていくリアルのパラダイム

はじめは夢の構成のように意味不明であった映画のモンタージュという組み合わせ技法は、やがて鑑賞者の暗黙の論理として受容され、自明のリアリズムとしてとらえられる様になります。
そして時が経つとまた、この自明なリアリズムを意味不明にするあらたな論理的枠組みの組み替えがラジカルな芸術家によって行われるわけです。
このマグリットの絵のシュールさは「女性の上半身」+「魚の尾」という人魚の整合性を前提にし、「魚の頭」+「女性の下半身」という不整合性へ組み替えられて生じます。
しかし映画の論理と同様、もともと人魚というものが人間の想像物として描かれた瞬間は非常にシュールなものであったはずです。

そうやって人間の意識が基盤にするせまい論理的枠組み(パラダイム)を、本来世界が持つもっと広大な意味可能性へと開いていこうとするのが、シュールレアリズムの当為です。
シュールレアリズムは、意識というリミッターを解除するために精神分析的な技法を援用するわけですが、別にそれは作家自身の無意識の意図や不気味なトラウマを表現したいという単なる露出趣味などではありません。

 

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