自己満足とは何か

人生/一般

はじめに

最近、「自己満足」という言葉がやたらと使われます。
しかし、多くの場合、適切でない文脈で使われているため、何を言っているのかよく分からないことがあります。
そこで、少し「自己満足」ということばの意味を考えたいと思います。

 

自己満足という言葉の意味

まず、感じるのは、この「自己満足」という言葉の不自然さです。
「満足」というのは感情や心の状態をあらわす言葉であるため、自己がそれを感じるのは当然すぎることで、「自己-満足」という言葉には重言(例、馬から落馬する)のようなくどさがあります。
別の言葉に入れ替えると分かりやすいのですが、「自己不満足」「自己幸福」「自己喜び」「自己怒り」などは、相当わずらわしい表現です。
英語などと違い、主語を省略する傾向のある日本語においては特にそうです。

では、なぜわざわざ「自己満足」などという面倒な言葉が使われるかというと、それが他者や社会に与える満足「社会的満足」と、対比的に使われているからです(社会的満足⇔自己満足)。
「自己満足」という言葉を使う人にはその隠れた前提として、「満足というものは自分だけでなく、他者や社会のためになるものでないといけない」という考えがあります。
それは「満足は自分だけで占有するな」あるいは「満足は社会化されたものでないと許さない」という宣言です。
「自己満足」という言葉を使用することによって、正常で役に立つ社会化された満足と、社会からはずれた異常な満足の分別がなされるのです。

 

具体例1、スポーツ

例えば、私が毎日、木の棒の上に丸い物体を乗せて100メートル先まで何秒で運べるかのバランスゲームの練習に命を懸けたとしても、自己満足だと笑われるだけです。
しかし、丸い物体を木の棒で弾いて100メートル先(両翼)まで運ぶ練習に命をかければ、それは野球という社会的満足として称賛されます。

スポーツと戯れごとの違いは、それが社会のシステムに乗っているかどうかの違いであって、本質的な優劣ではありません。
野球の価値は野球に内在するものではなく、野球という戯れを社会化する(経済活動として機能させる)ために日々努力している人達が生み出してるものです。

 

具体例2、洋服

例えば、おばあちゃんのお古のレトロな古着や、ただ同然のフリマの洋服でお洒落を楽しむ人は、モード(流行)の最前線にいる自称お洒落な人達に「自己満足」なファッションだと批判されます。
なぜなら、お金を落とさないお洒落は経済を回さない悪い満足であり、流行に合わせない者は社会的文脈を読めない自分勝手な人間(社会化されない自然人)だからです。
逆にモードを追いかけ沢山お金を消費するお洒落は社会化された良い満足であり、社会的に適切な洋服を着こなすことは、優秀な社会人の証しなのです。

 

社会化された満足VS自己満足

しかし、流行の高級バッグを集めて喜ぶ人がいるのと同様に、海岸の砂浜で貝殻を集めることに満足を感じる人もいるわけであって、本質的には生き方の問題です。
「自己満足」という批判の言葉の御旗のもとに、満足の社会化を強要されるいわれはないわけです。
価値の客観性(社会性)と主観性、どちらが優も劣もありません。
二百万円のダイヤのリングと、母の形見の二千円のガラス玉の指輪のどちらをとるかは、人それぞれです。

勿論、社会化されない満足を社会が手放しで肯定すれば、社会の発展というものはのぞめません。
だから当然、婚約指輪としてガラス玉を贈れば、周囲はそれをバカにします。
そこで本人が主観的な価値(例えば、何よりも大切にしていた母の形見を、自分の妻となる女性に贈る)という理念を重視し、客観的な価値(経済を回す給料三か月分の指輪)の要請と圧力を無視できるかどうかです。
裏を返せば、自己満足と罵られ、自分のアクションをすぐに引っ込める人は、その程度の価値付け(主観的な)や信念しか持っていなかったということです。

 

有意味な文脈で使われる「自己満足」

だから、「自己満足」という言葉(基本的には批判的な言葉)を使う適切な文脈は、「社会的満足という目的を明確に公示された状況」においてだけです。
例えば、会社組織やスポーツのチームプレーなどの場合、満たされるべきは組織の利益であると公示されているため、成員個人がいくら優秀な成績を取っても、それが組織に良い影響を与えていないなら「自己満足」です。
また、「私は他者のために生きている」と明言(公示)しながら、結果的に他者に貢献せず、自己の利益のみ得ているなら「自己満足」です。

要するに「自己満足」という言葉は、他者や社会のために生きる事を責務にしながら、自己の利益を追求している無責任な人に使う言葉なのです。
そもそも他者の利益など眼中になく、ただ黙々と自分の好きなように満足を得てる人に「自己満足」という言葉を投げるのは無意味であり、それは勝手に自己の理想(全面的に社会のために生きろ)を押し付けているだけの話です。
勿論、個人というものは同時に社会の成員であるため、社会を維持できるようある程度社会のために生きるのは当然ですが、全体という機械の歯車でも奴隷でもありません。
必要最低限の社会役割と慣習(不文律)を背負って、法律を守って、税金を納めていれば、十分です(要は社会人として生きていく上で当たり前のことをしていれば、既に必要な社会貢献は為されています)。

 

無意味な文脈で使われる「自己満足」

ただ他人を批判したいがために「自己満足」という言葉を乱用する者、ただ自分の誠実さと意識の高さを誇りたいがために自分の行為を「自己満足」と言う者…、いま、社会ではそんな「自己満足」という空虚な言葉が溢れかえっています。
彼等はただ自己の社会性を誇り、他者より優位に立ちたいだけであり、何ら生産的でない文脈で「自己満足」という言葉を使います。

また、ニヒリストを気取る人が「どうせ人間の行動なんて全部自己満足だ!」などとよく言いますが、それは当たり前すぎる事実「満足とは自己(主体)が感じる心の状態」であって、意味のない叫びです。
もし意味を汲み取るとすれば、社会的満足と自己満足の葛藤に疲れた者が、ヤケになっている時の叫び「全てか、しからずば無か」として捉えられます。
ニヒリスト(虚無主義者)とは敗残兵、落武者化した元アイデアリスト(理想主義者)のことです。
心の裏側(無意識)に現実離れした理想や希望を持っており、現実との乖離に打ちのめされて、自分で勝手に絶望しているセンチメンタルな人のことです。

 

おわり

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