※本頁の前に必ずプラトンのイデア論をお読みください。
形相(けいそう)と質料
理想(イデア)主義者プラトンに反し、その弟子であるアリストテレスは現実主義者です。
イデアが現実の個々のものを離れて存在するという師の考えを批判的に検討し、もっと現実的な形で理解しようとします。
イデアは現実と切り離しては存在できないものであるという、現実優位の方向への修正です。
ここでアリストテレスは「イデア」の代わりにその同義の語である「エイドス(形相)」を使用し、その対概念としては「ヒュレー(質料)」をおきます。
プラトンは「イデア」と「エイドス」を同じようなものとして扱っていましたが(プラトンはイデアを固定した専門用語として扱わず文脈によって様々な語をあてていましたが、その内の一つがエイドスです)、アリストテレスは「形相(エイドス)」を明確に自分の哲学の基礎として採用します。
例えば、プラトンの場合、眼前の「椅子」は、職人が頭の中にある椅子の「イデア(理念、本質、形相)」を想起し、それに従い、現実の材料を組み立て、制作したものです。
それに対し、アリストテレスは、椅子の「エイドス(理念、本質、形相)」は、現実の材料である「ヒュレー(質料)」(例、木材)の中に元々あるもので、それら二つは決して切り離すことのできないものだと考えます。
「形相(エイドス)」とは、それが何であるかという、理念的な設計図、いわゆる本質(何であるか)、「~である」と述語によって述べられるものです。
「質料(ヒュレー)」とは、それが何でできているかという、いわゆる素材にあたるものです。
質料という素材と、形相という本質(設計図)が一体のものとして、はじめて現実の個々の事物が成立するという考えです。
当然、これには階層秩序があり、対象として何処に目を向けるかの問題です。
例えば「椅子」に目を向ければ、材木が椅子の質料ですが、「教室」に目を向ければ、椅子自体は教室の構成材料である質料となります。
可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)
プラトンにおいては分離していた「形相」と「質料」を合一させるために導入されたのが、「可能態(デュナミス)」と「現実態(エネルゲイア)」という時間と運動を基礎とした概念です。
「可能性と現実性」という、人間にとって重要な思考の枠組みを生んだのが、アリストテレスのこの概念です。
例えば、犬は、まだ母犬の胎内の受精卵の状態の時すでに、遺伝子情報という設計図(犬の本質)である「形相」によって、将来犬として成長することが可能態(可能性)として包蔵されています。
その可能態(可能性)が現実化し、成長した犬となった時、それを現実態(現実性)と呼びます。
和楽器の笛である「尺八」は竹でできています。
それは職人の頭の中の「笛のイデア」を、外部から持ってきて、単純に材料に引っ付けたものではありません。
竹の特質や構造そのものに、笛になる可能性が含まれており、それが現実化したものが「尺八」だという訳です。
彫刻家のミケランジェロが、大理石の塊を見た瞬間にその完成形を直感したように、ある人が真竹の根元を見た瞬間に、それが笛になるという可能性(可能態)をその中に見出すイメージです。
この可能態、現実態という概念を導入したことにより、イデア論のように本質を外部に設定することなく、現実の個物に内在するものとして説明するこができます。
可能性が現実性へ向かうという、時間と運動の要素を加えたことで、イデアを個物を引っ付けたのですのです。
目的論
万物は可能態から現実態へといたる運動であるというこの考えは、後の西洋思想の根幹となる「目的論」を準備します。
すべてのものは現実態という目的(完成)を目指し、進歩的に進んでいく運動である、という考えです。
あるがまま、このまま、でいいと考える東洋思想とは、正反対の世界観です。
すべてのものは何らかの目的を持った未完成の状態にあり、完成を目指すその運動の道程の糸が織りなす巨大な織物が、世界です。
『二コマコス倫理学』の冒頭でも述べましたが、あるものはつねに別のあるものを目的とする手段です。
現実態と可能態の関係性を言い換えれば、それは目的と手段の関係です。
世界とは、その何層にも重なった「目的-手段、現実態-可能態」関係の網によって、成り立っているイメージです。
ナラの木は材木を目指し、材木は椅子を目指し、椅子は教室を目指し、教室は学校を目指し、学校は公教育を目指し、公教育は国の文化的発展を目指します。
すべてのものに「目的」があるということは、同時に、すべてのものには「意味」がある、ということです。
私たち文明人が、行動の意味や事物の意味を問い、悩むのは、多くの場合、この「目的論」という思考の枠組みが生じさせるものです。
「目的論」が思考のベースになる前の人間に、自分の仕事の意味や、人生の意味など問う必要はなく、ただ純粋に生きるだけです。
純粋形相
この現実態-可能態(目的-手段)の関係の連鎖は、形相の形相の形相…、質料の質料の質料…という階梯を生じさせます。
この質料の質料の質料…という先には、最後の質料である「存在そのもの」への問いという難問が待ち構えており、それは「存在論」へと導きます。
そして、形相の形相の形相…という先には、すべての運動が目指す究極目的である「純粋形相」へと導きます。
「純粋形相」とは、すべての可能性(可能態)を現実化(現実態)し、もう完成を求めて運動する必要のない完全に充足したものです。
可能態は常に欠如を感じ、現実態に成るために運動し続けます。
そして、ある可能性の現実化は、さらに上位の現実性のための可能性となります(目的の達成は常に新たな目的のための手段に転化する)。
この連鎖の終着点に「純粋形相」があり、これの別名が「神」と呼ばれるものです。
自らは完全であるがゆえに、動く必要はないが、他のすべての事物の運動を引き寄せるという意味で「不動の動者」とも言われます。
例えば、美しい花は自ら動くことなく、その美によって人を動かし、人々を集める力があります。
それと同様、動き続ける世界の事物を超越した場所にあり、世界の究極目的となるものとして、「純粋形相」はあります。
「純粋形相」が、質料(可能態)を超越した存在としてあるという意味では、結局、アリストテレスは最後の部分で、現実を超越したイデアというプラトンの世界観を採用してしまうことになります。
プラトンの「<善>のイデア」に動的、時間的な要素を加えたものが「不動の動者」であると言えます。
存在論
「存在そのもの」の探求を、哲学では「存在論」と呼びます。
ある特定の事物の本質「それが何であるか」を問うのではなく、存在そのもの、存在一般の本質「ある(在る)とは何か」を問う学問領域です。
存在「ある(在る)」は、二種のものに大分されます。
A、自体的な存在、端的に存在するもの、述語になりえない主語。
存在論で「事実存在(現実存在)」と呼ばれるもので、字義通り、端的に事実(現実)として具体的にあるものが存在していることです。
日本語の「~がある(~が在る)」「主語Sがある」にあたります。
例えば、「リンゴがある(存在する)」「ソクラテスがいる(存在する)」というような、存在そのものとしての「在る」です。
B、付帯的な存在、主語との関係において在る付属的なもの、主語の述語となるもの。
術語的に主語を説明する日本語の「~である」「(主語Sは)述語Pである」にあたります。
この述語としての存在「~である」は10のカテゴリー(存在の範疇)に分類されます。
実体、性質、量、関係、場所、時間、状態、所有、能動、受動、です。
例えば、「ソクラテスは人間である」は、実体(形相、定義としての)としての述語で、「ソクラテスは貧乏である」は、状態としての述語です。
この第一の範疇である「実体」についての述語を完全に集めたものが、主語の本質の叙述「主語Sは何であるか」であり、これがいわゆる「形相」です。
この形相が、存在論で「現実存在」の対になる「本質存在」と呼ばれるものです。
このAの「存在としての存在」を探求するのが、存在論の主要な課題です。
例えば、人類が物理学を極め尽くし、宇宙の構造や法則を知り尽くしたとしても、では、その物理法則や宇宙自体がどうして「存在する」のかということは分からないままです。
その存在の不思議に対して、ただ驚くことしかできません。
これは、あらゆる学問はBの付帯的な存在を探求しているだけだからです。
だから、アリストテレスは、B(存在に付帯する属性)を探求する自然科学などの全ての諸学を「第二哲学」と呼び、その上にあるA(存在自体、存在一般)の原理を探求するものを「第一哲学」と呼びます。
「形而上学(メタフュシカ)」とは、自然学(フュシカ)を「超えた(メタ)」ものを扱うという意味で、「第一哲学」と同義です。
「形而上学」は部分的に神学的な問題も扱いますが、その本意として存在論であり、現在の私たちが思っているようなイメージ「形而上学=机上の空論的幻想」とは、かなり異なります。
おわり