基本理念
かなり単純化して言うと、理念的なものより実利的、実際的なものを重視する考え方です。
今風の言葉でいうなら、結果が全て、結果の中にあらわれないものや実際の結果と関係した推論以外は無意味だとする立場です。
具体例一、為すべきことは結果から決める
今朝、私の家のポストに新聞が入っていません。
販売店に電話すると、受話器の向こうで従業員が議論しています。
「入れ忘れた」対「誰かに盗られた」という議論です。
そこで上司の鶴の一声が発せられます。
「どっちでも同じことだ、入ってないものは入っていない、やることはただお客さんの下に再度届けるだけだろ」と。
プラグマティズムが批判する観念論の議論(無駄なおしゃべり)も、これに似ています。
結果的に入っていないという事実、結果的に再度届けなければならないという帰結は、入れ忘れであろうが盗難であろうが同じことで、議論として無意味です。
しかし、これが連続すれば事情が変わります。
入れ忘れの連続なら従業員が解雇という帰結、盗難の連続なら警察に被害届という帰結に変るため、この無駄な議論は重要性をもってきます。
その概念が有意味であるか無意味であるかは、その実際的な結果から逆算して導かれるわけです。
具体例二、語の意味は具体的な結果が定める
来客があった時、客人が
1、「お茶をいただきたいのですが」
2、「いえ、お構いなく。お茶などけっこうですので」
3、「お茶だせ!」
のいずれかを言ったとします。
理念的には1と3が「お茶が必要」という同じ意味の言葉で、2はそれらとは逆の意味で「お茶が不要」となります。
しかし、実際には、1と2ではお茶が出てきますが、3では出てきません。
だから実際の効果をその言葉の意味としてとらえるプラグマティズムの視点では、1と2が同じ意味の言葉で、3がそれらと逆の意味となります。
具体例三、心の内容は外的な結果によってはかられる
仕事で失敗をして上司に怒られたとします。
部下Aさんは、上司が怒ることを躊躇するくらい自罰的に「反省」を口にし、謝罪します。しかし、彼は同じ失敗を何度も繰り返します。
部下Bさんは、「反省」を口にせず、むしろ不満げで生意気な態度です。しかし、彼は次の機会までに必ず修正をし、二度と同じ失敗はしません。
プラグマティズムの視点では、心に反省の観念を持っているのは、反省が結果として現れているBさんだけです。
Aさんはただその場をしのぐために「反省しています」という言葉を使用しているだけであり、心に持っているのは反省の観念ではなく、いかに相手の怒りをかわすかの逃避の観念です。
人間の心というものも実際の結果から類推されます。
プラグマティズムの代表的な思想家W・ジェームズの名言「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」「恐いから逃げるのではなく、逃げるから恐いのだ」は、個人の情動(恐怖)が身体変化(震え)の原因なのではなく、身体変化(震え)の知覚が情動(恐怖)という主観的な体験を生む、と言います。
これは、他人から見ても同じことで、逃げもしない、震えもしない、脈や脳波にそれらしい変化もない人が「恐い」と言っても、信じようがありません。
アメリカの通俗心理学やビジネス書や自己啓発本などに通底する「思考は現実化する」というテーゼも、プラグマティズムに依拠したものであり、その本質は「現実化したもののみが思考である」ということです。
具体例四、具体的な結果に無意味など存在しない
プラグマティズムは理念的なものに依存しないため、無意味なものが存在しえません。
概念や理念的には「無(意味)」は存在できますが、無意味な結果や実際的帰結など存在しません。
例えば、具体的現実からの逃げ場としての思考の安楽死でもある、いわゆるニヒリズム(無意味主義)が通用しません。
「人生は無意味だ」と言って、毎日寝て過ごすニヒリストの人生の意味は「毎日安楽に寝て過ごすこと」になり、まさに積極的に有意味の中に生きていることになります。
「政治など無意味だ。私はどの党も支持しない」と言う人は、結果的には現状肯定の保守を選択していることになり、現政権を支持していることになります。
意見の対立する人たちが議論して物別れに終わった時、理念的には「何の意味もない議論だった」となります。
しかし、この議論を通して、実際にはお互い何かが変わるはずです。
より自分の意見に固執するか、頭の隅や無意識のうちにでも対立意見が場所を占めることになるか分かりませんが、少なくとも議論する前の私と後の私では違った世界観を持っているはずです。
いわばこの議論によって起こった効果です。
プラグマティズム的にはこの何らかの効果を起こした議論は、決して無意味などではなく有意味なものであったのです。
結論、あたり前に考えるということ
いわばプラグマティズムは発想の転換です。
過程から結果が生まれるのではなく、結果から過程の意味や価値が導出されるという逆転した思考です。
皮肉っぽく言ってしまえば、「嘘もばれなきゃ嘘じゃない(嘘は社会的な結果として生ずるものであって、個人の心の意志過程は関係ない)」とか、「正しい者が勝つのではなく、勝った者が正しくなる」などでしょうか。
例えば、私が、とても善良な同僚の山田さんの人気に嫉妬して、「山田さんは表では善い顔をしているが、裏では麻薬の密売人をしている」という嘘の言説を流布したとします。
しかし、数日後、偶然山田さんが麻薬の密売で逮捕されたとニュースで流れます。
私は心の中で「嘘」をついたにもかかわらず、その言説は「真実」として成立します。
ここから分かるように、嘘か真実かを判定するものは私の心の過程などではなく、社会の中の現実的な結果が基準になっているのです。
当たり前の話、心の過程や、今現在の結果を生んだ過去の過程などの「見えないもの」は、今現在ありありと表れている現実の結果「見えるもの」から推理するしかないわけです。
普通の人間は、「過程という親木が、結果という果実を生む」という時間順序(因果律)の強固な偏見に汚染されているため、どうしても親木である過程を重視してしまうのです。
しかし、見えない過去の過程というものは、現在あらわれている現実的証拠から考古学的に推理するしかなく、現在の結果こそが、過程の意味や価値を生みす親木なのです。
プラグマティズムは、ただその当たり前の事実を当たり前に訴えるわけですが、普通の人々は因果律という色メガネ(偏見)で世界を見ているため、それが皮肉や逆転した思考にみえてしまうのです。
「テストの結果は悪かったけど、私は過程として死ぬほど努力したんです」などと訴えても、それは無駄なおしゃべり(観念論の議論)にすぎません。
もしその過程の意味や価値を認めて欲しい、あるいは真実にしたいのなら、その過去の過程が今現在においてあらわれている考古学的な証拠を提出しろ、ということなのです。
びっしり埋められ山積みにされた問題集や計算用紙のぶ厚い束を持ってくるなり、毎日12時間勉強していたという第三者の証言を集めるなりして、実際的に動き、過去の過程というものを現在の結果において遡及的に作っていかねばならないのです。
(さらに言ってしまえば、テストの結果が悪い以上、その計算用紙は、彼が勉強をしていたのではなく、一生懸命勉強をするフリをしていただけであることの証拠にしかなりません。)
現在という現実にあらわれた考古学的証拠(結果)によって遡及的に推理された過去(過程)が正しい「歴史」です。
考古学的証拠という結果を無視し、勝手に主張される過去の過程はたんなる「むかし話(おとぎ話)」でしかありません。
そういう観念論の無駄なおしゃべりをつつしむのがプラグマティズムの姿勢です。