存在と存在者
「存在とは何か」という問いは、人が思考する上で最終的にたどりつく有史以来の難問で、この探求を「存在論」といいます。
例えば宇宙の始まりや果てを物理学的に解明したとしても、人間のDNA構造を究極的に解析して人間の何たるかを知ったとしても、0と1の羅列で世界の構造の把握と完全な予測が可能になったとしても、絶対に解けない最後の問いが残ります。
「では、なぜそれら宇宙や原理がそもそも存在するのか、世界があって私があるというこの不思議はどういうことなのか」という問いです。
その何であるかを問われて究極的に答えられない存在そのものを「存在」、その他の何であるか(本質)を答えられる個別に存在しているものを「存在者」と分類します。
どんなものでも「何であるか(本質)」を問われた時、それの上位のカテゴリーによって説明できます。
例えば「リンゴ」なら、「果実の一種⇒植物の一種⇒生物の一種⇒物の一種⇒存在の一種⇒存在…?」となります。
しかし、最終的に存在の何であるかを答えるための上位概念がなく、ここで頓挫してしまいます。
だから「存在」の何であるかは答えられないが、その成り立ちや生成の過程は記述できる、というのがハイデガーの『存在と時間』の意図です。
「世界-内-存在」
私たちは有形無形問わず、様々な存在者に囲まれて生活しています。
机、教科書、法律、友人、インターネット、猫、青空、等々。
それら存在者の総体としての「世界」の内に私は存在しています。
その切ることのできないハイフンでつながる環境と私の在り方を「世界-内-存在」といい、そしてその中心にいる、今まさにここに在る私を「現存在」といいます。
存在者の中でも「私はなぜ在るか」と自分の存在を自分に問える特別な存在者(人間)が「現存在」なのです(説明を簡単にするため、ここでは「現存在」を「私」と言い換えて解説します)。
では、私のまわりに在る世界の存在者の意味「何であるか」はどうやって決まるのでしょうか。
それは私の目的「何のためか」によってです。
目的といってもそれは普段は意識することのない隠れた目的で、意図や計画という意味での目的ではありません。
例えば、かなづちの意味「何であるか(本質)」は「(大工仕事のために)釘を打つもの」です。
大工仕事という目的(未来)が、かなづちの現在の意味を生み出しています(これを現に成ると書いて「現成化」といいます)。
だから目的(未来)が変われば存在者の意味も別のものとして現成化してきます。
生活が目的の主婦にとって食パンは「食べるもの」ですが、絵を描くことが目的の洋画家にとって食パンは「線を消すもの(消しゴム)」です。
生活の質の向上という目的をもつ平和な日本に住む私にとって犬は「可愛がるもの(愛玩動物)」ですが、戦争で困窮して生存そのものが目的になればたぶん「食べるもの」に変わります。
何かのため(目的)は、必ず別の何かのためにつながっています。
大工仕事のためのものは家を建てるためのものでもあり、さらには大工さんの生計を立てるためのものでもあります。
食べるためのものは生きるためのものですし、生きるためのものは幸福な生を送るためのものでもあります。
そうやって私はすべての存在者を気遣いつつ、見えない目的を基準にして、現在ある周囲の存在者を意味付けます。
そして、その意味の網目の総体が、私の「世界」観になります。