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フランクルのロゴセラピー

心理/精神

精神因性

精神的な病の原因として、基本的には心理的なものと身体的なものの大きな二つのカテゴリーが挙げられます。
例えば心理的なトラウマが原因でうつ症状がでている人に、いくらうつの薬を処方しても根本的には改善されませんし、逆に原因が身体的なもので投薬によって改善できるものを、心の問題として治療すると、こじらせて長引かせる危険があります。
正しい原因を把握し、その有効な治療の手段を判断する必要があるのです。

しかし、フランクルはこれら二つに属さないもうひとつの原因となる第三のカテゴリーである「精神」を見つけます。
精神は心と何が違うのか分かりにくいですが、それをロゴス(概念や意味)を扱う人間の理性的な機能と考えます。
心理的な治療や身体的な治療では改善されない部類の症状を治療するものとして、フランクルは「実存分析(ロゴセラピー)」を掲げます。
例えば、生きる意味が分からずに悩んでうつ症状を発症している人に必要なのは、過去のトラウマや心理学的無意識を知ることでも、投薬でもありません。

フランクルはユダヤ人の強制収容所で多く見たこの症例を、現代社会の中でも見ます。
現代社会は強制収容所と似た構造を持っており、その基本要素として「実存的虚無感」を挙げます。
伝統や歴史や神や自然の規範が失われると同時に、従う指標も崩壊し、自分の行動に何の意味も感じられない根無し草のような現代人です。
いわば「未来を信じ、それを実現するための今の行為に意味を見出す」という人間独自の行為が不可能になっている状態です。
「毎日同じことの繰り返しで何の意味がある」「どうせ何をしたって世界は変わらない」「もう、どうでもいい」・・・。

 

ロゴセラピー(実存分析)の原理

では、フランクルはこの絶対不可能に見える状況をどう解決するのでしょうか。

それにはまず、実存分析のベースになるハイデガーの存在論を簡単に説明する必要があります。
例えば私の机の引き出しにあるカナヅチにある意味は「大工仕事のために釘を打つ」ということです。
カナヅチの意味は大工仕事という目的(未来)によって照らし出され存在します。
プロ野球投手を目指していたA君が事故で靭帯を損傷しそれを断念した時、その事故の「取り返しの付かないこと」という意味は、未来の「プロ野球選手になること」という目的によって照らし出され存在します。
仮にコンピュータープログラマーになることが未来の目的なら、その事故は「取り返しの付かないもの」という意味ではなく、普通の生活に際して特に問題のない「ちょっとした過去のやんちゃのひとつ」という意味付けになります。
私の世界を構成する現在の事物はすべて、こうやって未来に照らし出されて意味を付与されるのです。

だから、意味がないとは、未来がないということです。
意味がないとは、その事物や行為が単独で孤立してしまっており、未来を軸とした存在の連環の網目から外れてしまっていることです。
フランクルの実存分析は、この意味連環の網目から外れて無意味と化した私の行為を、再編成してそこへ組み入れ直し、意味をもたせようとします。

例えば、「会社の重役になり家族に楽させてやること」を生きる目的としていた中年男性が、余命半年でいのちを失うことを宣告されたとします。
それにより、目的を軸につながっていた今までの意味連環の網がバラバラになり、現在の行為に何の意味もなくなってしまいます。
そこでフランクルは新しい意味連環の網を作ることを患者に促します。
死を待つだけの何の意味もない現在の生活に意味を持たせるためには、新たな未来(目的)が必要です。
私は死ぬ、しかし子供たちは生きつづける、ならば目的は子供たちの未来に向ければいい。
例えば、それは私の死に様を見せることにより、死や病にも負けない人間の自由と尊厳の可能性を子供たちに提示すること。
重役になれず与えられなかった物質的な豊かさの代わりに、きっと未来に役立つ苦境に負けない精神的な強さを、私の態度によって教えられるのではないかという期待です。
それにより、無意味だった私の現在の行為は意味の連環に繋ぎとめられ、活きはじめます。

 

意味への意志

フランクルの重要な主張は、まずはじめに「意味」が存在していてそれを行為が追いかけるのではなく、行為が同時に意味を生み出すということにあります。
行為の伴わない意味など存在しないということです。
生きる意味などはじめからありません。
生きることそのものが意味そのものだからです。
世界が意味に満ちているがゆえに、人間は自由でありすぎ、逆に無意味に見えてしまうのです。
例えば、人生に意味がないから毎日寝て過ごすという人は、人生の意味は寝ること(安楽)にあると行為によって決断したということです。
フロイトが人間の生の原動力として「快楽への意志」を、アドラーが「権力への意志」を措定した場所に、フランクルは「意味への意志」を置きます(アイデアの源泉として、それぞれ順にショーペンハウアー、ニーチェ及びスピノザ、ハイデガーに対応しています)。
「人間は意味を意志する存在だ」ということは、今の自分を超え出ていくという運動が人間の行為の本質であり、かつ人間のその行為が必然的に意味を創り出す当為であるということを、結果から逆算して語ったことばです。

 

逆説志向法と脱反省法

では、具体的にどういう方法で治療するのでしょうか。
フランクル自身がごく僅かなものしか挙げていないので、一例にすぎませんが「逆説志向法」と「脱反省法」があります。

「逆説志向法」・・・いくら眠ろうとしても眠れない不眠で悩む患者に対し、逆にベッドに入ったら絶対に眠らないように志向させます。
すると眠らないように気張っていても、自然と眠りに落ちることになります。
意味連環の網目の中で固定した意味に囚われて身動きができなくなっている患者に対して、逆説をぶつけることによってそれを崩して相対化し、客観的な立場に身を置けるようにするのです。
それはユーモアにも似た立ち位置で、私を私が笑うことのできる自己距離化された態勢です。

「脱反省法」・・・逆にそうした自己距離化した客観的自分(反省的自己)に固定されてしまって、生活世界の主観的自分(非反省的自己)で支障をきたす人もいます。
例えば映画を観ていても、感動する場面になると反省的な自分が邪魔をするのです。
泣きそうになると「作り物に泣いてるの?」、面白いシーンになると「そんな幼稚なのが面白いの?」という風に自分が自分を見る反省ばかりが作動して、生活に対して集中できない状態です。
この場合、自分自身を注視する反省を止めさせるためには、自分自身を忘れさせなければなりません。
人が自分自身(我)を忘れるときは、意味に没頭している時です。
例えば、仮にこれが自分と同じ悩みを抱える者の治療のドキュメンタリー映画なら、食い入るように画面を見つめ意味に没頭し、反省する余地もないでしょう。
没頭することができない現在の自分の意味連環を、没頭できるほどより強い高次の意味連環の網に構造化し直すことによって、治療するのです。
例えば、作り物の映画では反省的な自己が出てきて感動ができないなら、旅に出て、文字通り我を忘れるほどのリアルな感動を経験すればいいのです。
会社でお腹が鳴って恥ずかしい自分を自分が見て仕事に集中できないなら、そんな下らない事を気にしている暇がないほど本当に興味を持って集中できる仕事に就けばいいのです。
「精神的実存いわば本来の自我は、反省[的に把握することが]不可能なものであり、みずからを実現するという現実においてのみ現実存在するものなのである」(V.E.フランクル著『識られざる神』より)

 

私固有の意味を生きる

意味への意志を基とするといっても、ロゴセラピストは決して患者に意味を与えません。
先に挙げた存在論的な意味生成の過程を指標にして、患者が意味を見つけ創造する手助けをするだけです。
チェスの王者に対して一般人が「最高の一手を教えてください」と尋ねる時、王者は「最高の一手などない。その盤面の状況次第で最適の一手は変化するもので、それはその状況の中にいる本人にしか分からない」と答えます。
同じように「意味」にも絶対や固定したものなどなく、まして世界から与えられるものでもなく、それは本人がその状況の中で自分自身で見つけ出すしかないもの、意味を生きることによってしか捉えられないものなのです。

 

おわり

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