言語の成立
まず、簡単な思考実験をしてみましょう。
特殊な記憶喪失になって言葉の記憶のみが無くなってしまった人がいるとしましょう。
その人が風景を前にして目にするものは、なんだかよく分からない抽象絵画のような混沌とした世界です。
混沌とした感じに不安を覚えたので、とりあえず分かりやすい特徴を目安に名前を付けていきます。
真ん中の横線を境にして、上を「ソラ」下を「ダイチ」、その境界線は「スイヘイセン」と名付けます。
「ソラ」の中にも色の違う部分があるのでそれを「クモ」、「ダイチ」の中にも同じく色の違いで「リク」「ウミ」と名付けます。
さらに分かりやすい特徴を境界として、「タイヨウ」「モリ」「カワ」「マチ」など名付けていき、最終的には混沌とした情景から、安定した風景の世界へと変えていきます。
実体概念から関係概念へ
ある特徴を境界として分けることを言語学では「分節化」と呼びます。
この例では最初に世界を「ソラ」と「ダイチ」に分節しましたが、ここで非常に重要なことは、「ソラ」なくして「ダイチ」はなく、逆に「ダイチ」なくして「ソラ」は存在しえないということです。
壷を描くことによって同時に向き合う顔の絵を描くだまし絵「ルビンの壺」のように、片方が消えれば同時にもう片方も消えてなくなってしまうのです。
「ソラ」「ダイチ」「クモ」「リク」「ウミ」・・・、すべての言葉はお互いに関係しあって網目のように結びつき依存しあっており、自立しては存在できないのです。
ひとつの言葉が無くなれば、それだけで構造全体が組み替えられるのです。
例えば、国語辞典で「勇気」という言葉を引くと、「勇ましい意気。困難や危険を恐れ無い心」とあります。
「勇気」という言葉を理解するには、「勇ましい」「意気」「困難」「危険」「恐れ」「無い」「心」と、さらにたくさんの言葉を理解しなければなりません。
それで「心」という語を調べると、さらに複雑でもっと多くの言葉と関係しあっており・・・。
以上から分かるように、ひとつの言葉は国語辞典のすべての言葉と関係しあっており、非常に複雑な網目の関係性の中にあり、けっして自立して実体的には存在できないのです。
この言葉の構造化した網目の体系を言語学的に「ラング」と呼びます。
言語分節の恣意性
ここで思考実験に戻りましょう。
言語記憶を失った人が、「ソラ」の中にある綺麗な円環のものに「ニジ」と名付けたとします。
その「ニジ」の中になんとなく色の境界のようなものがあり、それぞれに「アカ」「アオ」「キ」・・と七つに分節し名前を付けました。
日本人と同じで彼は虹を七色に分節したのです。
しかし、別の国や文化圏では虹を二色や五色に分節してとらえることがあります。
彼らにとっては「アカ」も「キ」も同じ「○○○」という言葉で、「アオ」も「ミドリ」も同じ「×××」という言葉でとらえます。
「黄色」や「緑色」が存在するのは七色に分節する文化圏のみで、虹を「○○○」と「×××」の二色に分節する文化圏では「黄色」も「緑色」も存在していないのです。
例えば普通の人にとって、河原の石ころは単なる「石」でしかありません。
しかし、河原の石の構成を研究している地学の先生には、それらの「石」の中に無数の差異を見つけ、名前が付けられているはずです。
「カコウ岩」「カクセン岩」「サ岩」「ケツ岩」「レキ岩」等々、虹の七色の分節のように様々な存在が把握されているのです。
鳥の仲間のペンギンと、哺乳類の仲間のイルカを日本人は明確に区別しますが、文化圏が違えばペンギンとイルカを大きさが違うだけの同じ生物「△△△」と名付け、逆に鳥とペンギンを明確に別物と区別することもありえます。
このように、言語の分節が恣意的である以上、事物の総体である世界の存在そのものが、それぞれの文化や個人によって違ったものとして相対的に把握されているということなのです。
パラダイムの転回
ソシュール言語学は、「事物は実体として自立的に存在している」という古い考え方から、コペルニクス的な転回として、「事物は関係性の網目の中にのみ存在しうる」という現代思想へのパラダイムを開いたのです。
おわり