ユングの個性化の過程

心理/精神

理論

「自己(セルフ)」…人間の意識も無意識も含めた心全体の中心にあるもの。自我を包含している全体的で完全なもの。普遍的に人間すべてがもつもの。

「自我(エゴ)」…自己からの分離によって、一部分のみ選択され意識(表面)化されたもの。自己の上に浮かぶ島のようなもの。私個人固有のもの。

自我が自己からの分離の過程で失った完全なものの可能性を取り戻すことによって全体性を回復し、「自己」を実現すること。
それが人を成長(自己実現)させる。

これを「個性化の過程」という。

具体的には

会社員Aさんがいます。
彼は文化系で真面目、勉強も仕事も熱心に取り組み、家族想いです。
それが、今の彼の「自我」像です。

しかし彼は生まれた時からそういう自我を持っていた訳ではありません。
大人になる過程で、それらを選び取った(あるいは取らされた)のです。
不真面目ではなく真面目を選び、体育系ではなく文化系を選び、遊びよりも勉強や仕事を選び、独身であるより家族生活を選んだのです。
生まれた時は何者でもなかったAさんが、それらの選択を通して個性を持つ、自我を獲得していったのです。

多くの場合それらの選択は、なりゆきや環境による強制、他の可能性に対しての情報不足などによって、十分な検討を経ることなく選ばれたものであり、本当の意味での選択とは言えません。
Aさんの自我に選ばれなかった可能性たち(不真面目、体育系、遊び、独身)は完全に捨てられた訳ではなく、無意識の底に眠り続けています。
やがてそれはコンプレックスという形をとって、亡霊のように意識にあらわれ、自我を苦しめます。

Aさんは、不真面目で体育系の遊び人、独身貴族の上司Bさんを見る度に、嫌悪感と苛立ちと不安を覚えます。
そのため、会社内でのコミュニケーションが円滑に進まず、仕事にも悪影響が出てきます。

人は自分の持っていないものを持っている人に対して、嫉妬や怒りの炎を燃やします。
しかし、一度持ったものを、あえて自分で捨てた人は、けっして嫉妬などしません。
生まれながらの貧乏人はお金持ちを嫉妬しますが、お金持ちが金に嫌気が差して財産を捨てて自ら選んで貧乏人になった場合は、嫉妬をすることなどないでしょう。
なぜなら、お金持ちという可能性を捨てる際に、それについて自我に納得(統合)されているからです。

だから、Aさんが嫉妬や不安を解消し、前進するためには、自我が過去に捨て去ったそれらの可能性ともう一度向き合い、検討(対決)し、理解し、納得(統合)する必要があるのです。
例えば、一度、上司Bさんの趣味であるサーフィンについて行って、体育系や遊びを体験し、理解してみるのもよい検討方法かもしれません。
また、上司Bさんへの嫌悪感は、Aさんの生きられなかった可能性をコンプレックスとして投影した自分自身の問題であり、それを解決するのは私自身の心持であることを、深く自覚することで納得(統合)できるかもしれません。

どうあれ、過去に十分に検討することなく捨てられた自分の可能性たちと向き合い、和解することによって、「自我」は成長し、完全態である「自己」により近づき、自己実現が成就します。

不良少年が、過去に捨てた自分の真面目さと対決、統合し、優れた教師として自己を実現することなどがよい例です。

真の成長とは

私たちが一般的に考えている成長とは、成長ではなく、ただの選択です。
選択によって、ある可能性を捨て、ある可能性を選び取ることで、特化していくだけにすぎません。
普遍から特殊へ、全体から部分へ、完全から不完全へと分化し、特殊な形態を獲得することを成長と呼んでいるのです。
つまり私たちは、何かを獲得した分、同時に何かを失っているのです。

例えば、人間の胎児の手指の形態形成前は、ドラえもんの手のような「しゃもじ型」をしています。イメージとしては、そこから五本の手指が生えてきて新たな機能が獲得されると思われますが、実際はしゃもじ型が部分的に細胞死することによって五指の形態が獲得されます。
自分の手の指と指の間の隙間を眺めて欲しいのですが、母のお腹の中にいた時には、この何もなかった空間は身体細胞で充たされていたのです。
その細胞の諸可能性を失ったことによって、現在の手指の機能を獲得したように、私の現在の個性は、過去において失った別の個性を鋳型として形成された半身でしかないのです。

子供は、跳びはねながら歩いたり、蛇行しながら歩いたり、手足を揃えて歩くナンバ歩きをしたり、様々な歩き方をします。
そうしていると大人に「大人しく(大人らしく)しなさい」と叱られ、多様な歩き方の可能性を止め、明治期に導入された西洋式の軍事訓練をベースとした現在の私たち大人の歩き方へと特化させられます。
私は歩行の様々な諸可能性を捨て去ることにより、大人の歩き方を獲得し、それを成長と思い込むのです。

ユングの言う成長とは、その事実を反省的に自覚すること、元の全体性をもう一度取り戻すこと、その上で再選択することです。
過去を乗り越え未来に向かうという既存の進歩的な成長観とは正反対に、過去という完全性へ向かい失った諸可能性を再統合することが成長なのです。
私たち一般人の考えている成長とは、ただの忘却(昔の可能性を忘れることで、新しい可能性を手に入れたと錯覚しているだけ)にすぎません。
老年になってから多くの人々が、「結局自分は何の成長もしていない」という事実に気付くのは、本当の成長というものを理解せぬまま年を重ねただけだからです。

 

おわり

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