セネカの『人生の短さについて』(1)

一、人生は使い方次第で、長くも短くもなる

多くの人は人生が短いと嘆く。
何の準備も整わないうちに、人は召される。
偉大な人(ヒポクラテス)も「人生は短く、学は長い」と言う。

しかし、私たちに与えられた人生の時間は十分に長く、偉大な仕事を成し遂げる時間も足りている。
ただ、私たちの時間の使い方が悪く、活用できていないだけの話しなのだ。
人生の時間は怠惰や贅沢の浪費に費やされ、死ぬ時にようやく「人生(時)は過ぎ去る」ということに気付く。

莫大な財産も管理者が無能であれば一瞬で消え去り、ささやかな財産でも管理者が有能であれば上手く運用され増えていく。
それと同様、人生の時間というものも、上手く管理すれば、もっともっと生産的になりうる。

貪欲、怠惰、夢想的な野心、有益なものを見極める判断力のなさ、他人の目を気にする卑屈な心、無意味な争いや画策、それに伴う敵対者への恐れと不安、権力者への隷属、他人の不幸を喜び自分の不幸を嘆き、確固とした目的を持たず不安定で移り気であり、そうしてふらふら時を無駄にしている内に、ふいに人生から終わりを告げられる。
「私たちが生きているのは、人生のごくわずかの部分だけ(ホメロス)」なのであり、残りの部分は、生きているとは言えず、ただ時が流れているだけだ。

金、プライド、快楽等、様々な下等なものに包囲され、それに縛られ、自分を所有せず、他の誰かのために自分を使い潰している。
他人や他人の目に映る自分のことばかり気にかけ、内なる自分のことは気にもかけない。

自分自身のことは省みもしないくせに、他人には自分のことをもっと見て欲しいと要求する。
他者と共にありたいからではなく、自分自身と向き合うことから逃げるために。

人は自分の土地が占拠されることは絶対許さないのに、自分の人生に関しては略奪者を自ら招きいれる。
人は財産については倹約家のくせに、時間となると浪費家に変貌する。
一度、自分の人生の収支決算を思い描いてみなさい。
自分の人生の時間から、他者に、夫婦喧嘩に、愛人に、上司に、部下に、義務に、懲罰に、暇潰しに、自己が招いた病気のために、どれだけの時間が無駄に奪われたかを。
無意味な悲しみや、愚にもつかない喜びや、尽きることない欲望などに、どれだけの人生を消費したのかを。
そして、手元にあとどれだけの時間が残されているかを考えてみなさい。
このままでは、あなたは自分の人生を生きることなく死んでいくだろう。

人間は、まるで自分が永遠に生きられるかのごとく生きている。
そしてある日突然、最後の日がやってきて、そのことを思い知る。
もちろん、その日も、自分のためではなく、他人の用事のために遣われているのだが。
人間は、どんなものでも失うことを怯えるくせに、どんなものでも永遠であるかのように欲する。

自分の希望や目的を持っていても、たいてい人は「また今度にしよう。この仕事が終わってからはじめよう」と言う。
しかし、そのまた今度という将来に、私が生きているという保証がどこにあるのか。
人生の残りかすを自分のためにとっておくのか。
生きることをやめなければならない時に、生きることを始めようとするのは、愚かではないか。

二、多忙な人間はどのように人生を浪費するか

多忙な人間は、心が散漫になり、何事も十分に成し遂げることができない。
すべてのものを無理やり詰め込み、消化もせずに吐き出す。
生きることも死ぬことも、深く受け入れることなく、人生の表面を滑っていく。

偉大にな人物とは、自分の時間を自分を中心にして使い、他人に隷属するような無駄な時間は決して使わない者だ。
だから彼の人生は十分に長い。
それに比べて多忙な人間とは、群がる無数の他者によって彼の人生の時間を奪い取られる者のことである。

一度、日々のスケジュールをチェックしてみればいい。
そうすれば、そのほとんどが他人のための用事であり、自分のために使われる時間はほとんど残っていないという事に気付くだろう。

大抵の人は、現在への嫌悪の中にいながら、未来への希望に向かって生き急いでいる。
「今は辛いが、未来には良くなるだろうから辛抱しよう」と言いながら、その未来は到来することなく人生を終える。
しかし、偉大な人、人生の時間を自分を中心にして使う人は、毎日の日々を、人生最後の日のように大切に生きる。
明日を待ち望むことも、明日を怖れることもなく、未来という幻想のために大切な現在の現実を失うことはない。
未来など、運命の思うままにさせておけばよい。
すでに彼の人生は現在において充足しているからである。

別に白髪やシワの数が、長く生きていたことの証拠にはならない。
ただ長く存在していただけで、生きていたのではない。
港を出ても、上手く舵を取れず、天候の赴くままに振り回され、おなじ所をぐるぐる回り続けても、航海したとは言わない。

人は時間を求められると、その理由は気にするくせに、時間そのもののことは何も考えず簡単に与えてしまう。
最も高価なものが、最もどうでもよいもののように扱われる。
なぜかというと、時間は無形で目に見えない概念であるため、きちんと考えなければ把握できないものだからだ。
時間は無料の空気でもあるかのように浪費されるが、いったん死に関わる病気に罹れば、全財産を投げ打ってでも生きながらえようとする。
死の危機によって人生の時間が可視化でもされなければ、人は時間のことを考えない、曖昧な生き物である。

いつ尽きるとも分からない人生の時間であれば、なおさら慎重に使わねばならないはずだ。
失われた時間は決して戻らず、人生は引き返すことも立ち止まることも許されない。
それはまったく音を立てず、誰にも気付かれないように静かに流れていく。
そのことに気付かねばならないのだ。

三、人生を長くする時間の使い方

未来に頼らず、現在をつかまえ、過去と向き合うこと。

人はよりよく生きようと多忙を極め、生を築こうとしながら生を使い果たしてしまう。
遠い将来についての計画や期待は、日々の生を奪い去っていく。
なぜ人は不確かな未来のために、人生最良のこの日を捨て去るのか。
今すぐに生きなさい。

多忙な人は、未来の期待に視線をもっていかれ、現実の状況が見えない。
一日一日と老年に近付いていっているのにそれに気付かず、突然老人になり、慌てふためく。
まだ準備している最中に、人生から放り出されるのだ。

未来は不確かで、過去は確かであり、過去は誰にも自由にできない。
多忙な人間は過去を見ることができない。
なぜなら、忙しすぎて振り返る暇がない上、なにしろ過去を反省すると、自分の欠点が浮き彫りにされるからである。
自分の行いをつねに自己の良心に依って決断し生きてきた人でもなければ、過去の記憶は怖いものである。
嘘や欺瞞や狡猾や貪欲や浪費が、自分のかけがえのない人生を食い潰してきたさまを見るから。

しかし、本来過去というものは、神聖で特別なものだ。
世界のあらゆる偶然性を超越し、神の力も及ばない。
欠乏や不安や病気や襲撃や略奪にも脅かされない、確定的で何の心配もなく絶対的に所有できるものだからである。

安定し落ち着いた人の心は、現在過去未来、人生のすべての部分を見ることができる。
しかし、多忙な人間の心は、未来にかけられたくびきに引っ張られる馬のように、過去は決して見えず、現在はつかむ間もなく流れ去ってしまう。

年寄りたちは少しでも命を延ばしたいと物乞いのように祈り、若作りをして自分を騙し、まるで死の運命すら騙し果せたかのようにて喜ぶ。
しかし、運命は確実にやってき、彼らは引きずり降ろされるかのように怯えながら死んでいく。
その時になって、ようやく、きちんと生きてこなかったことを反省し、「もし、この死の危機を回避できたなら、今までやろうと願いながらやらずにいたことを全部するのだ!」と叫ぶ。
今までどうでもいい準備や無駄な努力に奔走し、一番肝心な実りを収穫せぬまま死にゆくことに気付くのだ。

これに対し、立派な人達は、毎日を充足して生きており、余計なものはなく、浪費することも、奪い去られるものもない。
彼にとっては、人生の先ではなく、人生そのものが果実であり、つねに十分満ち足りている。
たとえ急に運命の日がやってきても、ためらうことなく、真直ぐな足どりで、死に向かっていくだろう。

(2)へつづく