メルロ=ポンティの『幼児の対人関係』(1)身体図式

幼児における他人知覚

古典的な心理学においては、心的作用や感覚が、当人のみに与えられた個人的なものだと考えられていました。
私の本心はあなたには分からないし、私が感覚している赤とあなたが感覚している赤が同じものであると測る方法はない、というように。
こういう観点に立てば、他者の心とは、たんなる「記号の解読」であり、他者の発する言葉や表情や身振りから、それを自己の経験と照らし合わせて、推測するわけです。
「彼はお腹を押さえている。私は腹が痛い時お腹を押さえる。よって彼は腹が痛いのだろう」と。

しかし、これはかなり高度な知的操作です。
外部データと私の内部のデータを観念的につなぎ合わせ、そこに知的な推論や判断が加わって成立する作用です。
他者の表情をある程度正確に読み取る(大人の笑顔=おおむね好意など)幼児が、そんな知的操作をしているとは思えません。
そもそも、まだ自己の表情や身体像を鏡などによって把握したこともない幼児が、ママの笑顔の表情と私が感じている笑顔が、見た目として類比的に同じであると比較することが不可能です。
ママの笑顔に対し、それを模倣し笑顔で対応する幼児は、ママの表情の視覚データを表情筋の内的運動感に翻訳し、自己の身体内でそれを再現しているわけでもありません。

これら幼児における他者知覚の問題を解決する際に必要になってくるのが、次に解説する「身体図式」です。
私の身体とは、諸感覚が寄せ集められた一塊のものではなく、周囲の空間を巻き込んだ関係性のまとまりや仕組みの全体(系-システム)の中における自己の位置と地位(ありさま)である「身体図式」の知覚です。

身体図式とは

私たちが身体の運動という時、それは物理的な座標空間内の動きをイメージします。
仕事中、机の上のコーヒーを飲む時、まず下に下がっている腕を90度横に上げ、そのままさらに90度前へ動かすことによって、手はコーヒーカップにたどり着きます。
しかし、こうした意識的で客観的な動きの下地に、もっと無意識的で直接的な身体運動というものが存在しています。

それはいわば環境と私が貼りついた全体性の中で、私と環境が互いの動きに合わせて相即的に変化していくような空間運動です。
例えば、私の家の階段に、ある日突然知らないうちに5mm厚の滑り止めが貼られていました。
私はそれに気付かず、階段を上る時に蹴つまづきます。
分かっていても、さらに次の日、また蹴つまづきました。
ここから分かるように、私の身体は階段という環境と相即不離の関係として、紙一重(5mmですが)の状態で最も効率的な軌道を導出し階段の昇降という運動を無意識的にやってのけていたわけです。
階段が5mm変形したことで、私と環境を取り巻くこの全体の空間図式「身体図式」が狂い、蹴つまづいたのです。
有名なだまし絵「ルビンの壷」の壷の胴がほんの少し太くなっただけで、人間の顔が別人のような鼻ぺちゃ君になるように。

この狂った身体図式は、意識的な運動(いつもよりちょっと脚を高く上げる)が微調整を繰り返しながら習慣化されることによって、安定的なものになります。
私の動きの大半は、この身体図式によって成り立っており、実は客観空間を前提とした意識的な動きの方がむしろ特殊なものなのです。
寝坊して眼鏡もはめずにカミソリでヒゲを剃ったり、鏡も見ずにコンタクトを入れたり、電柱まで1cmの隙間をぬって車を走らせるという芸当を難なくできるのは、みなこの無意識的な身体図式によってです。
自己や空間を主題的に意識するというスキルを身につける以前の幼児というものは、環境と私の縫合されたこの身体図式の中で生きているわけです。

腕を無くしたのに腕があるかのように意識し振舞ってしまう傷病兵の幻影肢や、脳の物理的な損傷によって客観的な空間把握ができなくなった兵が慣れた日常の動きは平然とやってのけるのは、意識的な空間把握の動きと身体図式内の動きが別の次元にあることを証示しています。

客観空間の基礎としての身体図式

これから詳細に見ていく幼児の発達を簡単にまとめると、先ず幼児は、自-他の意識が未分化の、前交通的な匿名の共生的な場に生きており、次にその共同性を基盤として自己の身体を客観的に把握しつつ他者を構成し、個々が区別された、私たち大人が一般的に自己や他者という時の、日常意識における対人関係が生じるのです。
基本的に生後六ヶ月ほどまでは、身体的な器官の成長と共に身体図式が徐々に整備され、後に自己意識と他者の認識を可能とするための土台が作られていきます。
そして六ヶ月以降は、その身体図式空間の上に覆いかぶさるように、客観的な空間というものが徐々に構築されていきます。

自己の身体の認識

人間の自己の身体意識において重要になるものが、鏡像の存在です。
たとえ鏡のない未開文化の中にあったとして、水溜りに映った自分であれ、黒い滑らかな岩肌に映る暗い鏡像であれ、いずれ人間は自己の身体経験としての内受容的側面以外の場所に、自己の身体を見出すことになります。
ここにおいてはじめて人間は、「自己の身体」というものの視覚像(表象)という非常に重要なものを発見することになります。

他者の鏡像

しかし、私の内感としての身体と外部の視覚像(鏡像)を結びつける前に、同時比較可能な他者の鏡像と他者の現実の身体というものの結びつきを知り、それが自己の鏡像の認識への手がかりにとなります。
例えば、生後6ヶ月ほどの幼児が鏡に映った母親に対し笑顔で奇声を発した時、後ろにいる現実の側の母から応答が帰ってきた時、幼児は振り返って驚きます。
こういう経験を通して、幼児は鏡像の他者と現実の他者に何らかのつながりがあるとを学ぶわけですが、まだ鏡像は現実の写し(虚構)ではなく、もうひとつの現実として準実在性を与えられています。
この段階の幼児にとっては、固有の他者が世界に一人である必要性も必然性も別にないわけです。

自己の鏡像

それにやや遅れて、自己の鏡像というものの認識の時期がやってきます。
二つ並んだ他者の鏡像と身体の対応関係は、比較が容易で理解も早いわけですが、鏡に映った自己の身体像と今この場所で内に感じているリアルな身体経験は、感覚として別の異相にあるため、これらをイコールで結ぶには、幼児にとってかなり高度な知的操作が必要になります。
「鏡に映ったあそこにいる私は私ではなく、ココにいる内感の私が私なのではあるが、私ではない人達(他者)にとっては、ココにいる私の場所にあそこにいる私でない私が、私としてとらえられ存在している」という、意味の階層を何度も昇降する非常に知的な作業です。
未開人の偏在感覚(同一人物が別地点に存在する)や、入眠時や危機的状態において起こる自己視(いわゆる幽体離脱)の感覚などは、この知的操作の未発達や停止や退行によるものとも考えられます。

理念的空間の獲得

与えられた諸感覚データを空間的に再配分するこの知的な作業において生じてくるのが「理念的空間」というものです。
存在と感覚データ(視覚像など)が密着していた直接性の前空間的な世界から、その与えられた像をいったん引き剥がし、理念的な空間の適切な位置に置きなおすという作業です。
鏡の向こうにいた他者を鏡のこちらに置きなおし、鏡の向こうにいた私を、他者から眺めた私の位置と内的感覚としての私の位置を同期させた場所に置きなおすことによって、鏡像がたんなる見かけの非実在物であるということがようやく認識されます。

像というものを固有の空間性を持たない単なる見かけ(象徴的なもの)に還元する段階は12ヶ月頃には現れ、段階的に理念的空間が整備されていくことになります。
例えば失語症など、象徴的機能に障害が現れた場合、同時に空間的な障害も必ず現れてくるわけですが、それは空間というものが象徴を介した理念的な空間認識であることを裏付けています。
これは素朴な形ではありますが、物理学的空間の芽吹ともいえる出来事です。

(2)へつづく