実存主義とは何か

実存の定義

「実存」とは現実存在や事実存在の省略です。
哲学史的に「事実存在」というのは「本質存在」の対概念として使われます。
「事実存在」とは、現実の事実としてリアルに存在するもの「~が・ある」。
「本質存在」とは、それがどういうものであるかという理念的な「~で・ある」ということです。
(ある物を成立させる重要な性質を本質といいます)
存在「ある」とは、この二つの存在概念「~がある、~である」によって成り立っているというのが、存在とは何かを問う存在論(アリストテレス)の骨子です。
実存主義というのは、この事実存在を本質存在より優位におく主義主張です。

ただ、このアリストテレスの概念は、元々プラトンの理念(現世を超越したイデア)と現象(それが現実に現れる象-かたち-)の対概念を基礎にしているため、実存主義的なものというのは、かなり射程の広いものとなります。
「実存≒現象」に対するところの「本質≒理念」です。
例えばサルトルの実存主義はアリストテレスの「実存-本質」の実存を、ニーチェの実存主義はプラトンの「現象-理念」の現象を優位に置きます。
ここでは厳密な理解は求めていないので、「実存=現象」対「本質=理念」として話を進めます。

また、実存主義と言っても、有神論的なものと無神論的なものがあります。
一般的に前者で人気なのはヴィクトール・フランクル、後者なら今挙げたニーチェやサルトルなどでしょうか。
ただ、有神論的実存主義は思想として折衷的で中途半端なので、分かりやすい後者に絞って考えます。

実存主義の基礎

では、事実や現象を本質や理念より優位におくということの根拠は一体どこから来るのでしょうか。
実存主義的な考え方は昔からあったわけですが(例えばマルクスアウレリウスやパスカル、極め付きはキルケゴール)、そこに学問的な基礎を与えたのは、フッサールの現象学です。
ニーチェやキルケゴールがどれだけ現実優位を謳っても、学問的な基礎がなければ「それはあんたの勝手な解釈でしょ」で終わってしまいます。
実存主義哲学の親玉ともいえるハイデガーやサルトルがその哲学的基礎付けにおいたフッサールの現象学がなければ、20世紀実存主義の潮流はまず生まれていなかったでしょう。
現象学とは、それまで支配的であった理念優位の世界観(パラダイム)を転倒する、現象優位の学です。

例えば、私が星空を見ている時、天文学者がやってきて「あの星は20万光年先からやってきた光で、今はもう消滅した銀河を私たちは見ているんだよ」と言ったとします。
私がいま現に見ている瞬く星という現象は仮象であって、真の実在は「今はもう消滅した銀河」というわけです。
誰もが納得してしまうところですが、ここでフッサールは待ったをかけます。

なぜなら、その星の理念的な本質「今はもう消滅した銀河」は、いま現実に目の前で輝く星という現象から帰納的推論によって生じたものでしかありません。
それは明るさや色や視直径や年周視差などの現象としてあらわれるデータ(素材)をもとに推論された仮説(仮象)であって、その理念的本質などより、現実的現象の方が先立っているということです。
私たちが過去に立てた仮象(理念的本質)がひとり歩きして、いつの間にかそれが本物として転倒されてとらえられてしまったものが、既存の理念優位の世界観だったのです。
フッサールはその転倒された理念優位の世界観を再転倒して、元の正しい状態に戻したともいえます。
これはプラトンやキリスト教によって生み出された理念優位の転倒した道徳観を、ニーチェが再転倒した手続きによく似ています。

事実優位から必然的に帰結する世界観が実存主義

ここからは事実優位によって起こってくる世界観の主要な変化を挙げていきます。

1、疎外の克服
現実より理念(理想)を重視した時に起こってくるのが、いわゆる疎外論の問題です。
疎外とは、王様が自分の奴隷として買った女性に依存し、いつの間にか立場が逆転して、逆に王様が女奴隷の奴隷になってしまうような状態です。
人間の単なる道具として仮設しただけの科学的真理という奴隷に、いつのまにか主人である人間が振り回されるようになった現代。(フッサールの『危機』書)
理想として立てた人間観に縛られて、リアルな人間の複雑な豊穣さを失った心の貧しい現代人。(カミュの『異邦人』)
実存主義はそれらを克服し、理想に奪われた人間の豊かさや力を取り戻そうという運動です。
【具体例】
現実の異性との人間関係に恐れを抱いてアニメやアイドルなどの理想の異性に逃避していた人間が、ある時ショーウインドーに映ったリア充カップルと自分のみすぼらしい姿に愕然とします。
それを機に一転し、現実的な努力によって理想に吸い取られていた自分の活きるエネルギーを取り戻し、リアル異性と幸せになるようなものです。

2、主体性(自由と責任)の認識
本質よりも現実の事実が先立つなら、人間は現実の事実において努力し、自己の本質を作っていかねばなりません。
優しいという本質を持つ人間(優しい人)だから、現実にその人は優しい行為をするのではなく、現実の行為において優しい行為をするから、私は優しい人に成れるのです。
優しい人であるという理念的本質は、現実の普段の努力と行為によってしか生み出せないものなのです。
それは、人間は自由であると同時に、私の本質に対して私は全責任を負っているという事でもあります。
【具体例】
「ユダヤ人は本質的に嘘つきで、中国人は本質的に粗雑で、日本人は本質的に真面目だから、私も真面目だ」と言う日本人は、本質を現実より優位に置く、典型的な偏見と自己欺瞞(自己に向けられた偏見)の構造です。
私は真面目な人でありたければ自己欺瞞を捨て、自己の主体的な行為によって、現実の中で真面目である不断の努力をしていかねばならないのです。

3、不安の自覚
現実の側から本質や理念が決定されるとしたら、必然的に私たち人間は何の依りどころもない状況に立たされることになります。
本質(何であるか)は事物の設計図であり、理念はいわばコンセプトです。

例えば物には固定した性質(本質)があるため、物の動きの方向性というものは物自身が意志・選択・決断する必要はなく、自動的に決定されます。
手に持ったリンゴを離せば、リンゴは上に行こうか下に行こうかなど迷うことなく、リンゴという物体が元来持つ性質(本質)に従って下に落ちるまでです。
例えば、飢えたライオンの前に怪我をした子鹿が現れれば、ライオンは本能(本質)に従って、例外なくその子鹿を食べるでしょう。
しかし、人間は同じ状況にあっても、その選択に迷いが生じます。
つぶらな瞳の子鹿が訴えるような眼差しで私を見るとき、私は反省的に私の行為を検討し始めます。
このまま子鹿を屠殺して食べるべきか、もっと別の食べ物を探すべきか・・・。

なぜ、そういうことが起こるかというと、人間は自己が自己を見るという反省的な視点を取ることのできる稀有な存在だからです(デカルト的コギト)。
自分が自分に対すると言う意味でそれを「対自存在」といい、この分裂が人間を人間たらしめるものです。
反対に、物や動物など、現実と理念の一致した自己充足的な存在を、即しているという意味で「即自存在」といいます。

人間のうちには本質という行動規範はなく、人間の外にも超越的な規範(神や真理のような)もないということは、人間は必然的に不安の中にある存在であり、そこから逃れることは決してできないのです。

まとめ

・世間一般の素朴な世界の観方というものは、理念を生み出した出自である現象の存在を忘却し、理念優位に転倒してしまった価値観です。(フッサール)
・実存主義はそれを取り戻すために、現象優位に最転倒し直した世界観を提示することになり、世間の価値とは異なった非常に逆説的な主張となります。(ニーチェ、カミュ)
・内在的な本質も超越的な真理も持たない寄る辺なき人間は、砂漠のど真ん中に放り込まれたような絶望と不安の中に、つねにあり続けることになります。(キルケゴール、ハイデガー)
・しかし、人間は、あらかじめ設定された設計図(本質)や目的(真理)を持たないがゆえに、自由であり、世界のあり方に対して全責任を負っており、人間は逃れることのできない自由の刑に処されているわけです。(サルトル)