ジェームズの『プラグマティズム』

変化と運動としての真理

一般的に真理というものは、絶対普遍の確固とした安定的なものと理解されています。
しかし、実際は現実的にそうなっているでしょうか。

例えば、私たちは学校で教科書を正しいこと(真理)として教えられます。
学校においてはまさに教科書がバイブルです。
けれど、今を生きる私たちが百年前の教科書を読むと、間違ったことばかりが書いてあって笑ってしまいます。
「人間と恐竜が一緒に生きていた?まるで原始人のギャグマンガだな」と。
では、もし百年後の人達が、私たちの今の教科書を読めばどう思うでしょうか。
きっと同じように間違いだらけの教科書に笑い出すことでしょう。

なぜそういうことが起こるかというと、学問的な真理は常に進歩するからです。
古い学説の批判を通して、新しい学説を打ちたて、またそれを批判的に検討しさらに新しい学説を・・・の繰り返しです。
反省と修正の繰り返しという努力によって私たちは前進するように、過去の学説は昇り終えたハシゴとして捨てられていきます。
それとは逆に宗教の経典やバイブルは、何千年たっても決して内容は変わりません。
むしろ内容を少しでも書き換えることはご法度です。
なぜなら宗教的な真理観においては進歩など必要なく、永遠にそれは変わることなき絶対の真理だとされるからです。
学校の教科書というものは非常にアイロニカルなもので、教師は生徒に将来的には間違ったことを正しいこと(真理)として教えることになってしまうのです。

だから真理というものは固定した実在としてではなく、その運動や過程そのものを指しているのです。
真理が固定して見えるのは、遠近法における消失点のようなものです。
目の前の風景には確かに消失点はあります。
しかし、その消失点あたりをおよそ50km先と見定めてそこへ向かって歩いても、消失点は逃げてあいも変わらず50kmほど先にあり続けます。
俗っぽく言えば、それは思考における促進剤の働きをする、砂漠におけるオアシスの蜃気楼のようなものです。
また、それは「正義」の概念にも似ています。
正義と悪は状況に応じて変化する相対的なものですが、「正義」という概念があるがゆえに私たちはそれを意識し、それへ向かって努力してゆくことができます。

道具としての真理

真理というものは物や事象の媒介者であり、変化するものを結ぶ運動そのものです。
積極的に事物・事象として存在するのではなく、関係をつなぐハイフン(-)として存在します。
たとえるなら、建物の各部屋を結ぶ廊下のようなものです。
真理とは道具でありプロセスであり、それ自体で完結するものではなく、つねに何かのためにあるものです(道具主義)。

プラグマティズム的に学問領域においては、「27」という数を得るのに、3の立方でも、3と9の積でも、26と1の和でも、それらは同じ結果を導出し、同じ物事であり、すべて同等に真理となります。
しかし、ジェイムズの言う真理とは、私たちの行動や事物の関係をより円滑にし、より運動を促進し、より豊かな関係性を導くものです。
だからルービックキューブを作ろうとする人にとっては「3の立方」が、三色団子を作る菓子職人にとっては「3と9の積」が、26人のクラスにやってくる転校生を数える教師にとっては「26と1の和」がより真理となります。

真理とは、いま世界の中にある事象を、最も合理的で統一的に説明し、円滑な関係性と豊かな実りを結ぶ観念をさします。
それが近代においてはニュートンの世界観であり、それが過去においては真理でありました。
しかし、ニュートンの世界観では円滑な関係性を結べない多くの変則事例の発見によって、それを有効に説明しきるアインシュタインの世界観が次いで真理として採用されます。
真理とは、固定してあるものではなく、つねに変化し続ける真理化の過程であり、人間が作っていくクリエイティブなものなのです。
あらゆる観念のなかで、現実の中で効力を持ちそれを検証可能なものが真の観念として真理化し真と成り、効力を持たず検証不可能な観念が偽の観念として退けられます。

真理としての善

ここでいう豊かさや実りとは、人間にとっての「善」のことです。
ニーチェが、真理とはある種族にとって最大の有益をもたらす誤謬と捉えたことを、ジェイムズはもっと大きなパースの中で回収します。
なぜ人は真理を求めるのか、もしそれが有害であったり無害無益なものであったなら、誰もそれを求めたりはしないでしょう。
ここにおいて善と真理が一致します。

宗教はよく麻薬だと言われ、現代においては真理とは対極のものと捉えられます。
現実には問題解決の方法はいくらでもあるのに、強引に幻想に逃避させる麻薬だと。
しかし、ユダヤ人の強制収容所のように、身体精神的な極限状態にある人達に科学的な真理など持ち出したところで、それこそ滑稽なおとぎ話にしかなりえません。
むしろ宗教的な幻想の方が彼らにとって強烈なリアリティーを持ち、効力を発揮します。
ここにおいては宗教的観念が真理として機能しているのです。

まとめると、真理は最も合理的に事象の関係性をとらえ、かつ最も有益な結果をもたらす観念です。
もし、それ以上に合理的に世界の事象をとらえられる、あるいは有益な結果を生じさせる新しい観念が現れた時には、それら古い真理は組み替えられ新しい観念の下に埋もれ、見えない土台(地層、過去に真理であったもの)として、今を支える歴史となります。

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