プラグマティズムとは何か

基本理念

かなり単純化して言うと、理念的なものより実利的、実際的なものを重視する考え方です。
今風の言葉でいうなら、結果が全て、結果の中にあらわれないものや実際の結果と関係した推論以外は無意味だとする立場です。

例1

今朝、私の家のポストに新聞が入っていません。
販売店に電話すると、受話器の向こうで議論しています。
「入れ忘れた」対「誰かに盗られた」という議論です。
そこで鶴の一声が発せられます。
「どっちでも同じことだ、入ってないものは入っていない、やることはただお客さんの下に再度届けるだけだろ」と。
プラグマティズムが批判する観念論の議論(無駄なおしゃべり)も、これに似ています。
結果的に入っていないという事実、結果的に再度届けなければならないという帰結は、入れ忘れであろうが盗難であろうが同じことで、議論として無意味です。

しかし、これが連続すれば事情が変わります。
入れ忘れの連続なら従業員が解雇という帰結、盗難の連続なら警察に被害届という帰結に変るため、この無駄な議論は重要性をもってきます。

その概念が有意味であるか無意味であるかは、その実際的な結果から逆算して導かれるわけです。

例2

例えば、来客があった時、客人が

1、「お茶をいただきたいのですが」
2、「いえ、お構いなく。お茶などけっこうですので」
3、「お茶だせ!」

のいずれかを言ったとします。

理念的には1と3が「お茶が必要」という同じ意味の言葉で、2はそれらとは逆の意味で「お茶が不要」となります。
しかし、実際には、1と2ではお茶が出てきますが、3では出てきません。
だから実際の効果をその言葉の意味としてとらえるプラグマティズムの視点では、1と2が同じ意味の言葉で、3がそれらと逆の意味となります。

例3

例えば、「俺の人生の目的は世界一のギタリストになることだ」と言ってバンドをはじめたA君が、始めて半年足らずでバンドマンを辞めると言い出したとします。
「大切な女性を見つけたので、彼女を幸せにするためにちゃんと就職してサラリーマンになるんだ」と言って、ファンと結婚します。

一方、同じバンドのB君は、「俺がバンドをやるのは単に女にもてたいからだ」といつも言います。
しかし彼はメンバーが練習で帰った後も、毎晩遅くまで残って練習をつづけ、休みの日は尊敬するギタリストのライブに足しげく通い研究します。

A君は世界一のギタリストが目的と理念的には言っていますが、結果的に行為としては女にもてるためにバンドをはじめ、女を得たからバンドを辞めたということになってしまっています。
逆にB君は女にもてるのが目的だと言っていますが、結果的に行為としては世界一のギタリストになることを目的として努力しているように見えます。

この際、既存の理念重視の意味論では、女にもてたいだけの目的を持つのはB君となります。
しかし、プラグマティズムの意味論では、女にもてたいだけの目的を持つのはA君となります。

実際の問題に際しては、理念的に物事をとらえると非常に空虚で無意味なものに感じられてしまいます。
それに対してプラグマティズムの方が、物事の意味を正確にとらえているようにみえます。

例4

プラグマティズムは理念的なものに依存しないため、無意味な概念や理念はあっても、無意味な結果や実際的帰結など存在しません。
例えば、具体的現実からの逃げ場所としての思考の安楽死でもあるニヒリズム(無意味主義)が通用しません。
「人生は無意味だ」と言って、毎日寝て過ごすニヒリストの人生の意味は「毎日安楽に寝て過ごすこと」になり、まさに積極的に有意味の中に生きていることになります。
「政治など無意味だ。私はどの党も支持しない」と言う人は、結果的には現状肯定の保守を選択していることになり、現政権を支持していることになります。

意見の対立する人たちが議論して物別れに終わった時、理念的には「何の意味もない議論だった」となります。
しかし、この議論を通して、実際にはお互い何かが変わるはずです。
より自分の意見に固執するか、頭の隅や無意識のうちにでも対立意見が場所を占めることになるか分かりませんが、少なくとも議論する前の私と後の私では違った世界観を持っているはずです。
いわばこの議論によって起こった効果です。
プラグマティズム的にはこの何らかの効果を起こした議論は、決して無意味などではなく有意味なものであったのです。

あたり前に考える

いわばプラグマティズムは発想の転換です。
過程から結果が生まれるのではなく、結果から過程の意味や価値が導出されるという逆転した思考です。
皮肉っぽく言ってしまえば、「嘘もばれなきゃ嘘じゃない(嘘は社会的な結果として生ずるものであって、個人の心の意志過程は関係ない)」とか、「正しい者が勝つのではなく、勝った者が正しくなる」などでしょうか。

例えば、とても善良な同僚の山田さんの人気に嫉妬して、「山田さんは表では善い顔をしているが、裏では麻薬の密売人をしている」という嘘の言説を私が流布したとします。
しかし、数日後、山田さんが麻薬の密売で逮捕されたとニュースで流れます。
私は心の中で「嘘」をついたにもかかわらず、その言説は「真実」として成立します。
ここから分かるように、嘘か真実かを判定するものは私の心の過程などではなく、社会の中の現実的な結果が基準になっているのです。

当たり前の話、心の過程や、今現在の結果を生んだ過去の過程などの「見えないもの」は、今現在ありありと表れている現実の結果「見えるもの」から推理するしかないわけです。
普通の人間は、「過程という親木が、結果という果実を生む」という時系列(因果律)の強固な偏見に汚染されているため、どうしても親木である過程を重視してしまうのです。
しかし、見えない過去の過程というものは、現在あらわれている現実的証拠から考古学的に推理するしかなく、現在の結果こそが、過程の意味や価値を生みす親木なのです。
プラグマティズムは、ただその当たり前の事実を当たり前に訴えるわけですが、普通の人々は時系列の偏見という色メガネで世界を見ているため、それが皮肉や逆転した思考にみえてしまうのです。

「テストの結果は悪かったけど、私は過程として死ぬほど努力したんです」などと訴えても、それは無駄なおしゃべり(観念論の議論)にすぎません。
もしその過程の意味や価値を認めて欲しい、あるいは真実にしたいのなら、その過去の過程が今現在においてあらわれている考古学的な証拠を提出しろ、ということなのです。
びっしり埋められ山積みにされた問題集や計算用紙のぶ厚い束を持ってくるなり、毎日12時間勉強していたという第三者の証言を集めるなりして、実際的に動き、過去の過程というものを現在の結果において遡及的に作っていかねばならないのです。

現在という現実にあらわれた考古学的証拠(結果)によって遡及的に推理された過去(過程)が正しい「歴史」です。
考古学的証拠という結果を無視し、勝手に主張される過去の過程はたんなる「むかし話(おとぎ話)」でしかありません。
そういう観念論の無駄なおしゃべりをつつしむのがプラグマティズムの姿勢です。