ニーチェの闘いの四原則

哲学/思想

はじめに

批判を主とする哲学の世界において、最も戦闘的であったのがフリードリヒ・ニーチェですが、彼は自身の闘いに四つの原則を設けています。
四つの原則の前に、以下のような前提が語られます。

 

強き本性と弱き本性

強い本性をもつ者は、抵抗を必要とし、能動的な攻撃的情熱をもちます。
己の力の成長は、より強大な敵(問題)との決闘によって実現するからです。
誰かの敵であり得ることは、この強い本性を前提とし、攻撃する者の強さは、その者が必要とする敵対者(問題)の強度によって、ある程度測ることができます。
課題は、ただ敵を征服することではなく、自分の力のすべてを投入するに値する敵を選び、その抵抗を克服することによって、自己の力を最大限に発揮し、さらなる力へと向かうことにあります。
自身と対等以上のものとの闘いが必要であり、自分より下の者や軽蔑する相手と闘うことはできません。

それに対し、弱い本性をもつ者は、復讐心や怨恨などのネガティブな感情によって反動的に攻撃します。
『道徳の系譜』から補うと、以下のような対比になります。

       能動的攻撃性    反動的攻撃性
原理    力の発揮・増大   傷ついた自己の回復
根源    強さ・力の充溢   弱さ・無力感
感情    闘争欲・挑戦欲   嫉妬・怨恨・復讐心
動機    自己を超克したい  相手を引き下げたい
選択    強い敵・対等な敵  憎む相手・攻撃可能な相手
敵の価値  自己を高める存在  自己を傷つける存在
攻撃目的  抵抗の克服と成長  報復と心理的補償
自己の形式 自己肯定      他者否定による疑似自己肯定
時間的性格 未来投企的能動   過去拘束的反動
態度    敵の強さを承認   敵の価値を貶める
典型    強敵難問への挑戦  私怨的攻撃、他者転落の歓喜

 

四つの原則

第一、勝利しているもの(事柄)だけを攻撃する。

第二、自分一人だけが社会的危険を引き受けなければならないようなものだけを攻撃する。

第三、決して個人を攻撃しない。拡大鏡(一般的に広がってはいるが、密かに進行していて捉えがたい弊害を写す鏡)として利用するだけである。

第四、個人的な確執が排除され、過去の不愉快な経験という背景が存在しない事柄だけを攻撃する。

第一原則は、先述の敵の内在的条件(自分の全能力を投入するに値する相手)に、社会的・歴史的な外在的条件を加え、より限定したものです。
単に強敵と言うだけでなく、既に何らかの支配的地位を獲得した社会的勝者である必要があるのです。
弱い本性がもつ卑俗な攻撃性(勝者に媚び敗者を徹底的に攻撃する)とは真逆の選択基準です。

第四原則は、反動的な動機付けを排除するものです。
個人的な確執や過去の被害感情を持たない相手だけを攻撃する、つまり、私怨を動機とした反動的攻撃はしない、ということです。

第三原則は、個人と闘うなと言っているのではなく、個人そのものを相手に闘うのではなく、その個人によって代表的に表れている一般的問題を攻撃せよ、ということです。
例えば、(最近ネットで攻撃されている)竹中平蔵個人は、ネオリベラリズムやグローバリズムなどの問題を代表する表象であり、攻撃対象はそちら(表象元)にあるということです。
個人に悪を原因帰属させるのではなく、一般的な問題が現れた一つの典型事例として扱え、と言う話です。

第二原則は、自分自身を危険にさらすことのない攻撃はするな、闘争の責任は己自身のみで担え、お前しか闘えないふさわしい敵を討て、という規定です。
弱い本性がもつ卑俗な攻撃性(主語を大きくすることによって、己の責任を回避すると同時に集団の権威に依存する)とは真逆の基準です。
第二と第三は鏡像的関係(対照的な対称構造)となっています。
前者は闘争の主体を(一般を排した)自己という個人へと限定し、後者は闘争の対象を(個人を排した)一般的な問題へと限定します。
つまり、強き本性は、己個人の責任において一般と闘います(一対多の単騎特攻)。
それに反し、弱き本性は、一般の責任において個人と闘います(多対一の集団リンチ)。

 

おわりに

私たち(弱き本性の)凡人の攻撃の多くは、この四つの原則とは正反対の闘い方です。
敗者・弱者を対象として選び(第一原則の反対)、集団の後ろ盾を得て安全な立場から攻撃し(第二原則の反対)、一般的問題を敵個人に転嫁し(第三原則の反対)、私怨・嫉妬・報復感情を動機とする(第四原則の反対)。
ニーチェ的に言えば、極めて卑屈で歪んだ「吐き気をもよおすウジ虫たち」です。
SNSでの集団攻撃から社内のお局の新人イジメまで、社会はほぼ私たちウジ虫の反動的攻撃衝動で埋め尽くされ、死臭を放っています。

この闘いの四つの原則は『この男を見よ(Ecce Homo)』に収められています。
聖書からの引用ですが、磔刑のキリストを見て私たちは何を思うか、と同様、この男の闘い方を見て私たちウジ虫は何を思うか、という話です。

 

おわり