ポジティブとネガティブ
語義を一般化すると、ポジティブは「肯定的(なもの)」ネガティブは「否定的(なもの)」という対称的(かつ対照的)なものです。
特に人生において、このどちらの性質を指針にするかは重要な選択ですが、一長一短ありどちらが確実に良いとも言えません。
ポジティブは、可能性や有益に目を向けることで行動力・挑戦心・継続力を高め、人間関係や幸福感にも好影響を与えます。
一方、危険や失敗要因を過小評価し、無謀な楽観や自己過信に陥りやすくなります。
ネガティブは、危険・欠点・矛盾を敏感に察知し、慎重な判断や批判的思考、失敗回避などに優れます。
一方、損失を恐れて行動や挑戦を抑え、悲観や自己否定、過度な警戒に陥りやすくなります。
ポジティブかつネガティブ
ですから、多くの知識人が、ポジティブとネガティブを統合した生き方を推奨します。
例えば、ロマン・ロランは、「ネガティブに分析し、ポジティブに行動できる人(知性の悲観主義、意志の楽観主義)」を求めます。
いわば、役割分担的にポジとネガを統合し、ネガティブは得意な分析面を、ポジティブは得意な実践面を担うという形です。
例えば、『幸福論』で有名なアランは、単なるポジティブは駄目で一旦ネガティブを通過したポジティブである必要があることを説きます。
素朴なポジティブ→素朴なネガティブ→ネガティブを含んだ高次のポジティブ、という弁証法的な統合です。
構造としては、ロランの役割分担並存型より、アランの弁証法的統合型の方が強くなります。
なぜなら、知性の楽観主義にも意志の悲観主義にも重要な機能があるためです。
悲観主義的知性は主に批判と分析を得意としますが、楽観主義的知性のように発想と創造は出来ません(いわゆる、収束的思考能力と発散的思考能力の違い)。
楽観主義的意志は、可能性に賭けて行動するのを得意としますが、悲観主義的意志のように損失を受け入れ撤退することはできません。
ネガティブとポジティブを止揚(弁証法的統合)した高次のポジティブとは、両者の機能を保存しつつ、状況に応じて選択的に切り替えられるメタレベルの知性・意志であり、以下のすべてを包含できるのです。
ポジティブな知性=探索と創造
ネガティブな知性=批判と分析
ポジティブな意志=挑戦と継続
ネガティブな意志=抑制と撤退
ポジティブの優位性とネガティブの依存性
ここでネガティブ派としては疑問が生じます。
「ポジティブ→ネガティブ→高次のポジティブ、なぜここで止めてそれを理想とする?ポジティブ→ネガティブ→高次のポジティブ→高次のネガティブ、としてもいいはずだろう。対称的なポジとネガは対等なはずであり、ポジで止めるのは恣意的なお前の世界観だ」と。
しかし、本質的にポジとネガは非対称的なものであり、ネガはポジに依存する形で成立するものです。
否定には「否定される何か(肯定的なもの)」が先に必要である、という基本的な非対称性があります。
例えば、「この社会は不正である」という否定的判断も、正義・平等・自由など何らかの肯定的基準(不正という概念が生じる母体となる公正)なしには成立しません。
「すべての価値は虚偽だから破壊する」なら、虚偽より真実の方がよいという価値の肯定が暗黙の前提としてあります。
「社会は腐敗しているから拒絶する」なら、腐敗していない社会という肯定が暗黙の前提としてあります。
ネガティブという形を変えたポジティブ
P=ポジティブ、N=ネガティブ
P₀ 人生は素晴らしい。(素朴なポジティブ)
↓
N₁ 否、人生には苦痛、不条理、死がある。(素朴なネガティブ)
↓
P₁ それらを含めてなお、生を肯定する。(高次のポジティブ)
↓
N₂ 否、「何でも肯定せよ」という思想そのものが暴力だ。(高次のネガティブ)
ここで問題となるのは、N₂がなぜP₁を否定できるのかです。
それは、「苦しんでいる人間に肯定を強制してはいけない。現実の不正を美化してはいけない。思想は自己欺瞞になってはいけない」といった何らかの肯定的価値を、すでにN₂が持っているからです。
つまりN₂の内部には、潜在的P₂「肯定を強制しないこと」「現実に忠実であること」「苦痛を苦痛として認めること」という別の新たな肯定が内在しています。
だから本質は、「P₁ → N₂」ではなく、「P₁ → N₂〔=潜在的P₂〕 → P₂」なのです。
つまり、否定とは、肯定から独立して存在する反対極ではなく、ある肯定が自分自身の限界を発見するための継起・媒介なのです。
否定そのものが何らかの肯定に依存しているため、徹底した否定を続ければ、いずれその根底にある肯定が露出してくるのです。
例えば、あらゆるものを否定したニーチェには、生・力・創造・生成といった、非常に強力な肯定的価値がその基礎にあります。
ニーチェは、単なるニヒリストではなく、徹底した否定を遂行することで、自分の否定を支えていた肯定を純化していった思想家と言えます。
P₀
↓
N₁=P₀の限界を発見〔=潜在的P₁〕
↓
P₁=N₁が暗黙に要求しているものを明示
↓
N₂=P₁の限界を発見〔=潜在的P₂〕
↓
P₂=N₂が暗黙に要求しているものを明示
↓
…P →〈Pの自己否定〉→ P′→〈P′の自己否定〉→ P″→
上のように、ネガティブとは潜在的ポジティブであり、ここに高次のネガティブが終点になれない理由があるのです。
多くの哲学者が「高次の肯定」で終わりやすいのは、絶対的終点が肯定だったというより、否定をどこまで進めても、思想が意味ある判断・選択・行為としてある限り、最終的には何らかの肯定へ着地せざるを得ない、という、肯定と否定そのものの構造的非対称性があるからだともいえます。
自殺願望という形を変えた生の願望
人間にとっての否定の極致が自殺ですが、多くの自殺願望には、「このようには生きたくない」という否定を通じて、「別様に生きたい」という肯定が潜在しているのです。
例えば、最も精力的に自殺を論じたショーペンハウアーは、自殺を生への意志の否定とは考えません。[註1]
むしろ、自殺願望者は生を欲しており、ただ、自分に与えられた生の条件に満足できない状態と論じています。
自殺を、生の意志の否定ではなく、生の意志の強い肯定とまで言っています。
P₀:「生きたい」
↓ 現実との衝突
N₁:「生きたくない」
[この否定の内部を分析すると、尊厳を保ちたい、自分で人生を選びたい、孤独ではありたくない、或る苦痛のない状態でありたい、といった肯定的要求があります。つまり、N₁=「こんな人生なら生きたくない」の内部に、潜在的P₁=「このようでない或る仕方で生きたい」が含まれています。↓そしてそれが明示化された時
P₁:高次の「生きたい」(N₁を包摂した肯定)
つまり、自殺願望(全部ではない)は、「生きたい」から「よく生きたい」への転換点とも言えるのです。
自殺願望は、「否定形をとった生への要求」あるいは「この生ではない生を要求する否定」とも言えるのです。
否定の内にあるその潜在的肯定が言語化・意識化され、「死にたい」から「私は本当は○○ではない状態で生きたいのだ」へ転換したとき、はじめて高次の生きたい願望が現れるのです。
この構造は、自殺願望だけでなく、「仕事を辞めたい」「この国から出たい」「人間関係を全部切りたい」「何もしたくない」といった、その他の否定にも適用できます。
否定を「何を拒絶しているか」だけ見るのではなく、「その拒絶によって何を守ろうとしているのか」まで深く考えると、その背後にある隠れた肯定が見えてきます。
そして、その潜在的な肯定は、高次のポジティブへ転回するための足掛かりとなるはずです。
ベートーヴェン風に言うなら、「否定を通して肯定に至る」人生です。
「無限の精神を持つ有限な存在の私たちは、苦悩と歓喜の両方を抱くために生まれてきました。そして、人間にとって最善のことは、苦悩を通して歓喜に至ることだと言えるでしょう」
wir endliche mit dem unendlichen Geist sind nur zu leiden und Freuden gebohren,und beynah könnte man sagen die ausgezeichneten erhalten durch Leiden Freude.
おわり
※註1・・・ショーペンハウアー『意志と表象としての世界~第69節』の自殺論の核心部分のみの抄訳します。真の生の否定とは自殺ではなく欲望からの解脱(無私無欲)であり、自殺はむしろ激しい生の肯定だという主旨です。
われわれがこれまで考察してきた「生への意志の否定(欲望や執着を解脱した安寧状態、仏教的悟りのような涅槃の境地のこと)」から最も遠いもの、それは意志の個別的な現象を実際に消滅させること、すなわち自殺である。
自殺は、生への意志の否定であるどころか、むしろ生への意志を強烈に肯定する現象である。
なぜなら、意志の真の否定とは、人生の苦痛を嫌悪することではなく、人生の享楽そのものをもはや欲しないことだからである。
自殺する者は、なお生を欲している。ただ、自分に与えられた生の条件に満足できないのである。したがって彼が放棄するのは「生への意志」ではなく、個々の現象としての自分の生命にすぎない。
彼は生を欲している。身体が妨げられることなく存在し、その欲求を実現できることを欲している。しかし、さまざまな事情の絡み合いがそれを許さず、そのために大きな苦痛が生じる。
つまり、この一個人に現れた生への意志は、あまりにも強く妨げられ、自らの欲求を展開することができなくなっているのである。
自殺する者は、個体を否定するにすぎず、生への意志そのものを否定するのではない。
むしろ、生を欲する力が強く、その生を妨げる苦痛に激しく抵抗するがゆえに、ついには自分自身を破壊するところまで至るのである。
彼は、意志することをやめることができないからこそ、生きることをやめるのである。

