オンリーワンとは何か

人生/一般

唯我独尊

日本で「オンリーワン」という言葉が流行しました。
多くの場合、相対比較的な価値付けである「ナンバーワン」に対抗する、絶対評価的価値付けの概念として用いられています。
ほぼ仏教的価値観の俗化した言葉として使用されており、仏教の一般向け解説本などにみられる「唯我独尊」の概念に近いものです。

「唯我独尊」とは、「唯だ、我、独(ひとり)として尊し」との意味であり、それは、自分に何かを付与し追加して尊しとするのではない。他と比べて自分のほうが尊いということでもない。天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、しかも何一つ加える必要もなく、このいのちのままに尊いということの発見である。大谷大学-生活の中の仏教用語 – [192]「天上天下唯我独尊」

アメリカ的自己実現と日本的オンリーワン

アメリカも非常に個人(個性)と言うものを大切にし、「Be yourself(自分らしくあれ)」と謳いますが、日本的なオンリーワンとは異なります。
例えば、色には「色相(どの色か)」と「彩度(その色としてどれだけ鮮やかか)」があります。
アメリカ的な「Be yourself」とは、「自分のカラーを大切にし、そのカラーを磨く努力をし最大限輝かせろ」という構造をしています。
つまり、色相としては相対的に他と比較し優劣を儲けることはしませんが、彩度としては相対的に優劣を設け上位に登ろうとします。
ですから、資本主義的競争社会とはバッティングせず、むしろ「自己の才能を伸ばし成功を勝ち取れ」という競争の動機付けとなります。

それに対し、日本的オンリーワン(唯我独尊)は、色相のみならず彩度においても比較をしません。
いかに汚い赤でも、いかに薄い青でも、その彩度の低い色こそがひとつの個性として価値があり、すべての色(色相×彩度)がかけがえなく尊い、ということです。
これは競争社会とかなり相性の悪いものに見えます。

オンリーワンに対する批判

「オンリーワン」は魅力的な言葉ですが、これを嫌い批判する人も多くいます。

・社会の負け犬の現実逃避の言い訳。
・相対価値”より”絶対価値の方が偉いと、相対比較して述べる自己矛盾。
・自分に都合に合わせて絶対価値と相対価値を使い分ける二枚舌(例えば、好物や好みの異性に関しては相対比較で判断している)。
・言語は相対比較的な差異と価値の体系であり、相対比較による価値付けを止めることは何も認識しないことを意味する。
・自己とは、個人的自己と社会的自己の合力によって生じるものであり、社会的に相対比較評価される社会的個性を捨てれば、片羽の飛べない鳥になる。
・個性は努力によって創りあげる後天的なものであり、先天的にあるがままに与えられているものではない。

等々、「オンリーワン」は無数の批判を考えうる、かなり脆い概念です。

オンリーワンの本質

しかし、仏教的な唯我独尊を基にしたオンリーワンが、そんなに脆いものであるとは考えにくいので、この矛盾を可能な限り解いてみます。
結論から言うと「唯我独尊的絶対価値は相対価値を極めた時に生じるものであり、反対に、世間一般の相対価値はむしろ相対の皮をかぶった絶対価値である」ということです。

ある人が相対的比較を極めた場合、まるで相対的比較をしない人のように見えます。
例えば、隣の子のお弁当が自分より豪華であれば、相対比較的に私は不幸を感じます。
しかし、真に相対的なら、ご飯すら食べられない他国の人々や日の丸弁当がご馳走だった戦時中の日本人と比較して、私は私の豪華な弁当に幸福を感じるはずです。
そして、周囲からこの人(隣人より劣った弁当を幸福そうに食べる人)は相対比較をしない人として見られるでしょう。
母数(母集団)の小さい相対評価とは、むしろ相対の皮をかぶった絶対であり極めて詭弁的なもの(恣意的相対性)です。
偏差値が有効なのは全国における相対比較だからであり、過疎地域の高校内だけでの相対比較は意味をもちません。
本当の相対性は、狭く限定されたものではなく全体的なものなので、私の弁当と隣人の弁当の差など区別不可能なほど小さくなり(気付くことができないほどの小さな差、いわゆる最小可知差異-JND-)、どうでもよくなります。

相対的な関係概念(業や縁起や相即など)で世界(宇宙)全体を見ることが悟りの本質ですが、そのように相対性を極め宇宙大の相対比較を為すようになった者は、私たち凡夫の苦しみのタネであるちっぽけな相対比較に悩むことはなくなります。
その姿勢が、まるで相対比較を止め絶対的価値に生きる者に見えるという逆転現象が生じます。
反対に、凡夫のちっぽけな相対比較こそが、実は(相対性の根に隠された恣意的枠組み、恣意的母集団の選択としての)絶対価値であるというのが実態であり、凡夫は絶対価値に生きながら相対価値に生きているように見えるという逆転現象が生じます。

オンリーワン即ナンバーワン

ここにおいて絶対価値(オンリーワン)と相対価値(ナンバーワン)は同じものの二つの側面としてつながります。
オンリーワンは自己矛盾でも二枚舌でも片羽でもなく、そう見えてしまうのは、凡夫そのものが自己矛盾と二枚舌と片羽を抱えているから(つまり相対の皮をかぶった絶対という自己欺瞞構造)だとも言えます。

A.素朴な絶対価値(相対的視点を欠いた悪い意味での独我論、幼稚なオンリーワン)

B.素朴な相対価値(狭い限定的な相対的視点をもつ隠れた絶対である自己欺瞞的独我論、裏にこっそり隠した幼稚なオンリーワン)

C.真の相対かつ真の絶対(相対が極限において絶対と溶け合う唯我独尊状態、真のオンリーワン)

というように図式化できます。
BのAに対する批判はある程度有効ですが(批判というより単なる投影”オマエモナー”とも言えますが)、Cに対しては全く無力です。
日本的な「オンリーワン」に仏教的思想的な深さがあることを忘れては、まともな批判にはなりません。

真の絶対

相対比較を徹底する

比較対象(母集団)をどんどん増やす

最大という極限に到達する

その瞬間、「何よりも大きい小さい」という比較関係が消える

絶対性に転じる(真の絶対の開示)

ということが起こります。
人間の比較においても同様です。

相対

AとB

BとC

CとD

……

比較関係の広がりの限界に達し相対比較が消失する
(相対性を測っていた尺度そのものが極限で消える)

真の絶対

全員がオンリーワンになる

真の絶対とは、相対を否定したものではなく、相対性のネットワーク全体を一挙に見た状態、とも言えます。
真の相対は真の絶対と一致します。
私たち凡夫の言う「相対」とは偽の相対であると同時に偽の絶対です。
絶対性を裏に隠した恣意的(限定的)相対でありながら、その絶対性は相対性に支えられた恣意的(限定的)絶対性です。

 

おわり