悟りとは何か

人生/一般

仏教哲学的な悟り

人間が世界を認識するためには、元は一つであるはずの世界を分割し、個々の事物として把握する必要があります。
眼前に広がる一つの風景から、水平線を境に分割して、はじめて個々の事物「海」「空」が生じます。
善/悪、真/偽、美/醜、有機物/無機物、黒/白など、世界とは無数に分割された事物の相対的な関係の網として認識されます。
そして、人間はこの分割を自明の絶対的なものと考え、執着し、そこからさまざまな苦しみや不幸が生じます。

そのため、仏教(仏教哲学)では、この元の「全体で一つであるはずの世界(分割以前の世界)」を観ることによって、分割に対する執着から離れ、苦しみや不幸を霧散させようと考えます。
分割の世界⇒未分割の世界(悟りの境地)⇒未分割の世界を通して見直された分割の世界、という構造をなしています。

具体例

西田幾多郎(仏教哲学の偉い人)の研究者は、これを島の比喩で表現していましたが、それを借りると以下のようになります。
二つの別の島に見えるものも(分割知)、水中にもぐれば同じ一つの島の二つの突起でしかないと分かり(未分割知)、水中から再度上がればその二つの島は最初とは別の観方がされます(未分割知兼分割知)。

例えば、畑の雑草を食べてくれる善い動物A、その善い動物に危害を加える悪い動物Bがいたとします。
農夫は、それに腹を立て、ある日、悪い動物をすべて捕獲し殺処分します。
それによって善い動物Aの繁殖に歯止めが利かなくなり、畑は食い尽くされ壊滅します。[ここまでが分割知]
これにより、農夫はAとBの善し悪しの分割以前の根源である生態系(AとBの真の関係)を認識することになります。[未分割知]
その後は、素朴な善悪の認識(分割知)が改められた形でAとBの善悪の判断をなすようになり、AとBの最適のバランスを重視することになります。[未分割知兼分割知]

未分割知の無限遡及

しかし、仏教者たちの語る未分割知の現実における具体例は、よく考えると矛盾が生じます。
現実の分割は(原理として語られた)双子島のような単純な一層構造ではなく、どんどん潜っていくことができ限りがありません。
例えば、この農夫は、自身の畑の「生産性に基く生態系(動物の関係)」における未分割知兼分割知を得たにすぎません。
その前提となっている「生産性は善い」という分割はさらに深い未分割(より根源的な価値判断)に、「動物ABの関係」という分割はさらに深い未分割(より根源的な生態系)に潜ることができます。

カントは素朴な主体と客体の分割の根源を発見し、主体と客体の観方を大きく変えました。
アインシュタインは時間と空間の分割の根源を発見し、時間と空間の観方を大きく変えました。
しかし、いずれ彼らよりもっと深く潜り、彼らよりより未分割の世界を発見する学者が出てくるでしょう。
根源的世界である完全な未分割である「一」の世界は、未分割の未分割の未分割…という遠い遠い極限にあります。

知ったか坊主の矛盾とその解決

すると、矛盾が生じます。
その極限にある未分割の「一」の世界を経たはずの悟りを開いた坊主が、素朴な時間と空間の分割知しかもっておらず、時間と空間においてアインシュタインに劣っているという矛盾が生じます。
むしろ、アインシュタインの方が悟りに近いことになります。
坊主は、「善と悪は同じもの」「長所と短所は同じもの」「真と嘘は同じもの」などと漠然と語るだけで、アインシュタインのように具体的にどのような繋がりにおいて同一であるかを語ることはできません。
語ったとしても、就活生のリフレーミング(長所⇔短所の変換)程度の単純で浅いものでしかありません。
もし、坊主が単なる知ったかぶりではなく、本当に悟りを開き未分割知を会得しているとすれば、以下のように考えるほかありません。

悟りとは「あらゆる自己の分割を絶えず相対化しより深い構造へ開かれ続ける知性(未分割知)」に基く生き方であると。
それはただ私の眼前の分割を一段深く潜る知的運動であるため、坊主はアインシュタインに物理の分野では劣るという訳です。
反対に、アインシュタインには、この「あらゆる」という条件が抜けているため、彼は悟りの境地にあるとは言えません。

遊戯としての人生

私を取り巻くあらゆる分割に対する執着を離れ自由で心穏やかな境地に至るのは素晴らしいことですが、ある種の物足りなさや寂しさも感じます。
分割への執着(没入)が人間らしい喜怒哀楽を生み、争いというドラマを生むからです(勿論、これが不幸の原因ともなりますが)。
素朴な分割が仮象(虚構)であり、未分割知が生の現実であると知ってしまったからには、もう素朴な分割の世界に戻れそうにないように思えます。[註1]

しかし、これらも対立するものではなく、その根源は同一です。
例えば、子供はおままごと遊びをする時、嘘を嘘と分かっていながら完全に没入しています。
そしてその虚構(自分はママである)は、自身によって選択されたものである点も重要です。
それと同様、未分割知を会得し分割に対する執着を離れても、選択的に素朴な分割(虚構)に没入することが可能なのです。
皆、子供の頃は現実でも虚構でも関係なく全力で没入できていましたが、教育によって現実と虚構の分割を強制(矯正)され、虚構に没入することを禁じられます。
この事実を知ること、つまり分割(現実と虚構)の未分割知によって、分割(現実と虚構)を捉え直せば(いわば教育による矯正の消去)、また子供の時の様に「選択的に虚構に没入」することができるようになります(これを実際にやったのが三島由紀夫)。

それは遊戯であり、芸術的創造としての人生です。
たぶん、悟りは最終目的地ではなく、はじまり(Rebirth)です。
最後にニーチェの『悦ばしき知識』の一節を紹介して終わります。

第290節「ただ一つ必要なこと」

ただ一つ、どうしても必要なことがある。
それは、自分という人間に、一つの様式を与えることである。
これこそ、偉大であり、しかも稀な芸術である。
それを成し遂げるのは、自分の内にある、あらゆる力と弱さを見渡し、それらを一つの芸術的構想の中へ組み込む者である。
そうして最後には、すべてが美しく調和し、弱ささえも全体の魅力となって見る者を惹きつけるようになる。
そこでは、生まれつきの性質に、長年の鍛錬によって新しい第二の自然が付け加えられ、また別のところでは、生まれつきの荒々しさが少しずつ削り取られている。
それは、一日一日の根気強い仕事の積み重ねである。
消し去ることのできなかった醜さは巧みに覆い隠され、あるいは崇高さへと姿を変えられる。
形になりにくい曖昧な部分さえ、遠景のために残される。そこでは、その曖昧さが、無限へ向かう広がりを暗示する役目を果たす。
そして作品が完成すると、人はそこに、大きなところにも小さなところにも、一つの同じ趣味(趣味嗜好の意ではなく先の様式を与える己独自の傾向のこと)が貫いていたことを知るだろう。
その趣味が優れていたか劣っていたかは、人が考えるほど重要ではない。
重要なのは、それが一つの趣味であったということである。

こうした精神─それは第一級の精神であることさえある─は、自分自身と世界を、野性的で、自由で、気まぐれで、幻想的で、秩序に縛られない自然として生きようとし、あるいはそのように解釈しようとする。
そして、それでよいのである。
なぜなら、ただ一つ必要なのは、人が自分自身に満足できるようになることだからである。
それが、どのような物語によってであれ、どのような芸術によってであれ、かまわない。
人はそのとき初めて、他人から見ても耐えられる存在となる。
自分自身に満足していない人間は、つねにその不満を誰かに向けて復讐しようとしている。
私たちはその犠牲になる。
たとえ、それがただ、その人の醜さを見せつけられるだけだとしても。
醜いものを見続けることは、人を陰鬱にし、悪くするからである。

おわり

 

【註1】
私に悟った経験がないからそう思うだけで、悟った人に不足感や寂しさなど生じないと言われるかもしれません。しかし、悟ったはずの人が世俗に還り没入しながら生きていることも例外ではなく、禅の鈴木大拙もこの寂しさを語る部分があります。たぶん、悟ってしまうと悟りに対しての執着もなくなり、悟った人の生き方も凡夫の生き方も同列の往復可能なものとして扱うと考えられます。