好き嫌いの主観性
「好き嫌い」とは、個人の主観的な価値判断(価値付け)であり、「善し悪し」とは、共同体(社会)の客観的(厳密には共同体的主観)な価値判断です。
しかし、多くの場合、この区別が為されず、奇妙な争いが生じます。
例えば、「介護されてまで生きたくない」と私が個人の価値観(好き嫌い)を述べれば、必ず「では、介護されて生きている人は、いけない人なのですか?」と責める人が出てきます。
この人は、好き嫌い(主観的/特殊的/個人的価値判断)の叙述と、善悪(客観的/普遍的/社会的価値判断)の叙述を混同してしまい、「介護されて生きている人は悪い」と、錯誤的な解釈をし、錯誤的な批判をしてしまっているのです。
好き嫌いの程度
私たちは、義務教育において、好き嫌いを無くすように教育されます。
「好き嫌いなく、給食を食べましょう」「好き嫌いなく、友達と仲良くしましょう」などと言われます。
学校は、共同体の優秀な成員(社会の歯車)を養成するものであるため、個人の主観的な価値判断を、弱める必要があるためです。
個人の好き嫌いによる成員間の対立は、歯車のかみ合わせを損ない、組織の円滑な作動を妨げます。
その一方で、先生は「個性を大切にしましょう」と述べます。
個性の源は、個人の価値判断であり、例えば、私は運動より読書を好み、楽観より悲観を嫌い、犬系彼女より猫系彼女を好み、そのような好き嫌い(個人的価値判断)の連続によって、私は私の個性を形成しています。
ですから、「好き嫌いを無くせ」と「個性を大切にせよ」は、矛盾した命令に見えます。
矛盾を生じさせない解釈は、「組織の作動を妨げない程度の、節度ある好き嫌い(社会の邪魔にならない程度の個性)を大切にせよ」となります。
個人の好き嫌いを完全に抑圧し完全な歯車(個性なき機械人間)にすれば、その歯車(成員)は壊れたり狂ったりするため、長期的な視点から費用対効果(機械のメンテナンス・保守)を考え「節度ある好き嫌い」を推奨するのです。
好き嫌いの権利と義務
つまり、私は、「節度ある好き嫌い」を持つことは、共同体(社会)から許されています。
しかし、私は、「節度ない好き嫌い」を持つことは、共同体から許されていません。
嫌いな食材を食べないことや捨てることは許されますが、嫌いな食材を作る人々を迫害することは許されません。
嫌いな種類の人に近付かないことや嫌な顔をすることは許されますが、嫌いな種類の人を虐げたり邪魔をしたりするすることは許されません。
私は私の(節度ある)好き嫌いを行使する権利のみもちます。
その反面、私は他人の(節度ある)好き嫌いを許す義務があります。
例えば、私は誰かに「私を嫌わないで」と要求する権利はありません。
私は私の好き嫌いのために、他人の好き嫌いを変更させる権利などありませんし、他人はそれに従う義務はありません。
「私を嫌わないで」という要求は、ジャイアンの我儘理論(俺は誰かを嫌うが誰かは俺を嫌うな)と同じであり、極めて自己中心的なものです。
好き嫌いを生きる、平和
私は私の好き嫌い(節度ある個性)を全力で生き、他人は他人の好き嫌いを全力で生きるだけです。
他人が私を嫌い暴力を振るう時、それは「節度ある好き嫌い」の範囲を超えるものであるため許してはなりませんが、他人が私に挨拶をしない程度の「節度ある好き嫌い」の範囲内のものであれば、許容しなければなりません。
イジメは加害者側が全面的に悪いですが、冷たい目で他人に見られた程度で憤慨したり傷付いたりするのは全面的に被害者(?)側の私に原因があります。
他人の節度ある好き嫌い(他人の節度ある個性)を許せない、不寛容な人間の心の方に問題があるからです。
仮に、私が「繊細さん(HSP)」であったとしても、私の心の安定のために、他人の個性ひいては人生(好き嫌いの総決算)に介入し、変更を迫ることなどできません。
「身長170cmない奴は男として見れない」と女性に言われて、怒ったり傷心したりする男性は、最初に述べたように、主観的価値判断と客観的価値判断の区別を混同してしまっている人か、あるいは他人の節度ある好き嫌い(個性)を許せない自己中心主義者であるということです。
彼が太った女性を嫌うのと同等の権利で、彼女は背の低い男性を嫌います。
私が一部の中国人観光客を嫌うように、一部の白人観光客は私のことを嫌うでしょう。
それは、単なる当たり前であり、それこそが自然な調和であり、決して怒るものでも悲しむものでもありません。
互いが互いに堂々と自身の節度ある好き嫌いを生きられる寛容な世界こそが「平和」なのであり、「節度を超える好き嫌い」や「節度ある好き嫌いを許せない不寛容」が、社会の平和を破壊するのです。
おわり
