「結果がすべて」とは何か

人生/一般

「結果がすべて」

この20年ほど「結果がすべて」という言葉をよく耳にします。
確か、某有名プロ野球監督が使った言葉で、新自由主義的実力主義の社会の風潮とマッチして流行しだしたように記憶しています。
そして、いつのまにか個々のプレイヤー(社会人)たちも、なぜか監督(管理者)視点で自己反省し、自ら「結果がすべて」と語る(戒める)ようになっています。

過程という楽しみ

例えば、子供の頃は皆、純粋に楽しくて絵を描きます。
そこにおいては「過程がすべて」であり、過程を全力で楽しんでいます。
しかし、幼稚園の先生や親がその絵を褒めご褒美を与えだすと、過程を楽しむ内発的動機付けから、結果を求める外発的動機付けへと転換し、絵に対する内発的動機付けは消失します(E.L.デシの心理学実験)。
やがて、絵は、通知表や美大受験や展覧会の賞レースなどを通じた、自身の社会的地位向上やお金儲け(つまり賞賛や褒美などの外発的誘因)を目的とする手段になります。
そして、なぜか現代日本では、過程を楽しむ姿勢は子供のアマちゃんとして蔑まれ、結果を求める姿勢は大人のプロフェッショナルとして(意識高い系の人に)称賛されます。

結果というウンコ

しかし、多くの成功者は、自身の成した偉大な結果に対して、「自分は過程を全力で楽しんでいただけだ」という主旨のことを述べます。
結果を求める(外発的動機)より過程を楽しむ(内発的動機)方が、プレイヤーとしては強い(よい結果を出せる)ためです。
心理学的には、外発的動機付け(ご褒美のアメちゃん)に頼る人は未熟で、内発的動機付けで動く人は自立した人間だと考えられます。
精神分析では、お金とウンコのアナロジー(類推)が語られ、札束の風呂に入って喜ぶ現代のインフルエンサーなどは、ウンコを集めて喜ぶ未成熟者と同類の存在だと、醒めた目で見られています。
ある有名な芸術家は、自身の高額な作品を(絵を描く過程を楽しんだ後の)ウンコ(結果としての残り滓)と言い切ります。
プレイヤーが語る「結果がすべて」という言葉に、ある種の中二病的な青臭さがあるのは、まさに外発的動機で動く非自立的な人間の未熟さが、そこに表れているからです。

過程と結果の比較

「結果がすべて」の人生と「過程がすべて」の人生を比べてみましょう。

A「結果がすべての人生(失敗型)」・・・過程の楽しみはない、結果の喜びもない、悲惨な人生(喜楽の数0)
B「結果がすべての人生(成功型)」・・・過程の楽しみはない、結果の喜びはある、普通の人生(喜楽の数1、不確実)
C「過程がすべての人生(結果なし)」・・・過程の楽しみがある、結果の喜びはない、普通の人生(喜楽の数1、確実)
D「過程がすべての人生(結果あり)」・・・過程の楽しみがある、結果の喜びもある、最高の人生(喜楽の数2、内1は確実)

となります。
BとCは同じ普通の人生と言っても、過程の楽しみは確実(必然)に得られるものであるのに対し、結果の喜びは偶然的なものであることを考えると、実現可能性の面でCの方が勝っています。
どう考えても、「過程がすべて」の人生を選択した方が賢明です。

「過程がすべて」

先生や親や上司(つまり管理者)は、ご褒美(結果)で釣って、私たちプレイヤーを操作しやすい環境に置こうとし、「結果がすべて」という言葉を植え付けます。
それは、一生、「ニンジン(得られるかもわからない)をぶら下げられた馬」のような生き方です。
私たちは、子供の頃に持っていた最強の「過程がすべて(内発的動機)」の主体的パワーを失わないよう、生きねばなりません(というか、そう生きた方がたぶん充実した人生に成る)。
それは、ニーチェの言う人間の成長の最高段階「始まりであり、遊びであり、自ら転がる車輪である、子供のような」自発的・自立的な生き方です。
そういうわけで、「結果がすべて」などという未熟な言葉ではなく「過程がすべて」という成熟した大人の言葉を使いましょう、と私は全力アピールします。

 

おわり