文脈とは何か

人生/一般

たとえ話

天体としての地球の軌道を問うと、多くの人は、円運動(公転)だと答えます。
しかし、それは太陽系という極めて小さな範囲に限定した場合の動きでしかありません。
実際の地球は、自転しつつ公転しているだけではなく、太陽系自体が銀河系内を回転しており、さらに銀河系自体が銀河団内を動いており、さらに銀河団自体が宇宙空間内を広がるように動いており、その先はさらに未知の運動を孕んでいます。
本当の地球の軌道は、それら全ての動きが合成された非常に複雑なものであり、もつれてほどけない糸のような複雑な軌跡を描いており、把握することは困難です。
ですから、動きを記述するためには、範囲を限定する必要が生じます。
太陽系で限定するか、銀河系で限定するか、銀河団内に限定するかによって、地球の動きの形が異なってくることになります。
何の限定もしなければ、運動を記述することは不可能です。

文脈(コンテクスト)

それと同様、物事の「意味(その事物が”何であるか”という本質や定義)」や「価値(その事物に対する善悪や利害や優劣などの評価)」というものも、その事物が置かれる背景となる地平をどこで区切るか(限定するか)によって変化しますし、限定しない限り意味も価値も生じません。
普段、そのようなことは意識しませんが、何らかの事物を認知した時点で、私たちは暗黙裡にそのような限定範囲を見えない枠として設定しているのです。
限定する範囲といっても、空間的なものや時間的なものや概念的なものなど様々あり、それぞれ範囲の種類によってそれぞれ固有の変化があります。
当頁で言う「文脈(コンテクスト)」とは、このような物事の背景(地平)となる限定範囲のことを指しています。
以下に文脈の構成要素となる代表的な範囲(地平)を紹介します。

時間的地平

歴史を学べばよく分かりますが、ある歴史的出来事や人物などの意味や価値は、時代によって刻々と変化していくことが分かります。
当時の狭い文脈では正義の行いと思われていた出来事が、次の時代には悪の行いであると、時間的文脈(範囲)の拡大によって価値が変化することは普通です。

現在において悲惨な物事の意味を、未来(時間的文脈の拡大)の行動によって変化させよう、というのは、昔から用いられる人生の処世術です。
今時の歌の歌詞(SUPER BEAVER『ロマン』)で表現するなら、「報われなかった?そもそもまだ終わっちゃいない。全てを伏線に信じるからこそのロマンだ」というように、時間的文脈の拡大(未来)によって、現在あるいは過去においては無駄(無意味あるいは無価値)である出来事を有益(有意味あるいは有価値)な伏線として回収することです。
私の人生の出来事の意味と価値は、未来という時間的文脈の拡大の終点である人生の終わりまで変転し続け、私個人の時間的文脈の終わり(つまり死)によって、私の物語は完結し、文脈が完全に固定され、私の人生の構成要素である事物の意味と価値も、その時はじめて決定されます。

空間的地平

空間的文脈(範囲)内の物事の意味や価値も、その範囲の変化によって刻々と変転します。
家族や職業集団などの小さな空間的範囲の常識は、社会という文脈では非常識なものと変化することは多々あり、その社会における常識も世界というより大きな文脈では非常識なものに変化したりします。
最近、「合成の誤謬(部分としては正しい事の合成が全体としては間違った事に成るような事態)」という言葉をよく耳にしますが、この誤謬(あるいは詭弁)の本質は、空間的文脈の拡大による意味変化・価値変化です。

私たちは日常においても、「客観的(広い範囲を見る鳥瞰的視点)に見れば大したことない、むしろラッキーだ」というように、狭い空間的文脈でとらえた場合の悪い出来事を、広い空間的文脈に拡大することによって、良い出来事に変化させることがあります。
狭い文脈のみで物事を捉える人を、私たちはよく近視眼的な人間(近い範囲しか見えておらず拙速に物事を判断をする無能な人)と言って批判します。
恋人の裏切りによる別れは不幸な出来事ですが、広い視点から見れば、悪い縁が切れまともな異性との出会いの可能性が開かれる幸運な出来事です。

概念的地平

物事は、常に何らかの概念的な限定、地平(文脈)の上に在ります。
例えば、お笑い芸人がアイドルの女性にツッコミ(軽くはたく)を入れたら泣いた、という事例の場合、お笑い芸人は冗談の文脈の上で”はたく”訳ですが、真面目なアイドルは真面目の文脈の上で”はたく”を捉えてしまい、意地悪をされたと解釈し泣いてしまいます。
例えば、セクハラやパワハラ上司は、意図的に「仕事」という概念的文脈と「プライベート」という概念的文脈を混同させることによって、犯罪まがいのことを法や倫理に触れずに遂行します。

最近の人々は、SNSでの「切り抜き(元の文脈から引き剥がした事物を、発信者の都合の良い文脈に置き直し、恣意的にその事物の意味を変化させる行為)」の詭弁性を経験的によく理解しています。
この文脈の操作性はメディア発信者(いわゆるオールドメディア)の特権でしたが、テクノロジーの進歩によっていまや誰しもが発信者となりこの詭弁を弄するため、文脈(地平)と言うものの重要性が嫌でも目に付くことになります。
人々が、短文で構成された「名言集(いわば切り抜き集)」を好むのは、単に長文を読むのが面倒くさいというだけでなく、元の発言者の文脈を無視して、自由に読者の恣意的文脈に置き直すことができるためです。

分かり合い

一部の紹介でしたが、このような様々な地平が総合された「文脈」の中で、事物は意味や価値を獲得します。
ですから、物事を真に理解するとは、その背景(文脈)を解明することが主であり、対象となる事物そのものの価値や意味は後から乗っかる従属的な”おまけ”にすぎません。
パスカルは、間違いだと思われる意見も、その人と同じ視点(立場)に立って見れば、正しいものに見える、と言います。
つまり、相手の意見が間違ったものや馬鹿げたもの(無価値・無意味)に見えるのは、私が相手の文脈を理解していない可能性がかなり高い、ということです。

難しく言うと「解釈学」的方法、分かりやすく言うと、相手の立場に立って見る、相手の思いを汲む、ことでしか真の理解は獲得できないということです。
深層の文脈を把握せず、表面的な事物の意味や価値のみ追っている限り、ダイアローグ(対話)は成立せず、ただのモノローグ(独り言)同士の醜い争いと論破合戦に陥るだけです。
相手の事を想わない限り、「理解」という事が成立しません。
せめて片方でも相手を思いやれば、その相手への理解が、相手の頑なな心を溶かすこともあり、対話が成り立つ可能性も僅かながらありますが、双方が相手を不合理に(感情など非論理的理由で)嫌っていれば、いくら言葉のやり取りをしたところで、永久に独り言の晒し合いで終わります。

厳密に言うと、人は分かり合うことは出来ません。
なぜなら、私の視点(立場)に立てるのは、私だけだからです。
ただ、相手に寄り添い、相手の立場に近付く(視点を合わせる)ことは、ある程度可能なように思えます。
問題は、それだけの労力をかける動機付けをどこから得るのか、ということです。
愛する人の為なら、大抵の人が相手の立場に立って、必死で相手の言葉や行動を理解しようとするでしょう。
しかし、互いに思いやりのない論敵や政敵や商売敵など敵対者の意見は、原理的に言って理解不能(文脈という重要な情報が得られない為)で、対話は形骸化します。
対立的な対話者を敵では無く、親切な諫言者、あるいは良きライバルとして認識し、思いやる、寛容な人間同士の対話でない限り。

 

おわり