コミュ力・コミュ障とは何か

人生/一般

偽物のコミュ力(偽装されたコミュ障)

日本における特殊なコミュ二ケーションを語る前に、一般的なコミュニケーション能力にまつわる一つの問題を考えておく必要があります。

多くの場合、ジャイアン的な人(いわゆるDQN)はコミュニケーション能力が高く、のび太君的な人(いわゆるチー牛)は低いと思われています。
しかし、その本質をよく見ると、ジャイアンはのび太以上にコミュ二ケーション能力が低いことが分かります。
周囲の人々はジャイアンの暴力を恐れ、嫌々付き合っているにすぎず、コミュニケーションを取っている振りをしているだけで、本当は誰にも相手にされていません。
このように、大半のコミュニケーションは、暴力やお金や地位などの権力関係によって買われた偽物のコミュニケーションにすぎず、本当の意味でのコミュニケーション能力を持っている人は、極く少数です。
偽のコミュニケーションに頼る人は、所有していない本当のコミュニケーション能力を権力によって代替的に補っており、内心は強い劣等感を持っているため、自己のコミュニケーション力を吹聴する傾向(あるいはコミュニケーション力の低い人を見下す傾向)があります(心理学でいう過剰補償)。

ですから、多くのコミュニケーション能力があると思われている人(あるいは自分で思っている人)は、その権力(金や地位や剛健さや美貌など)を失った瞬間、誰にも相手にされなくなり、孤独な余生を送ることになります。
それに対し、権力関係に頼らない本当のコミュニケーションによってつながる人々の場合、終生の関係になる傾向があります。

そして、日本において、この偽のコミュニケーションを支えるのが「同調」という名の権力です。

日本におけるコミュ力

最近、日本では、「コミュ力(コミュニケーション能力)」「コミュ障(コミュニケーション障害)」という俗語が流行しています。
そのような言葉の流行の裏には、日本社会の対人関係における「生き辛さ」があるように思われます。
特に日本の社会集団は世界的に見て特異なコミュニケーションを基礎としています。
いわゆる「空気を読む」コミュニケーションです。

通常、コミュニケーション能力とは、自分の意見を相手によく伝え、相手の意見をよく聴く、意見のキャッチボールの能力を指します。
しかし、日本で言うコミュニケーション能力は、これとは正反対で、可能な限り自分の意見を殺し、他人の意見を聴かず、周囲の空気に合わせた(その社会集団内での)一般的行動原理に同調する力のことです。
実質は「コミュ力」というより、「シンパ力(同調力)」です。
政党集団のシンパのように、同調することを止めれば、社会的なリンチ(私的制裁)が待っているような、圧力的なものです。
そこにあるのは、人間とのダイアローグ(対話)ではなく、複数の人間を媒介した空気のモノローグ(独り言)です。

ですから、日本の組織では、自分の意見を発したり他人の意見を聴いたりできる「コミュ力」のある人が、空気の読めない「コミュ障」扱いされるという逆転現象が生じます。
外国人が日本人のコミュニケーションのあり方を見ると発達障害のように感じると言われます。
つまり日本人にとってのコミュ力ある人とは、外国人からしたらコミュ障だということです。

具体例

趣味関係で時々会う私の知人(女性)は非常に社交的で、本当の意味でのコミュ力も持っています。
しかし、会社では「ぼっち」だそうです。
曰く、仲間の悪口を言いたくないからだそうです。
日本社会の女性集団に顕著な社交技術として、「悪口で絆を作る」というものがあります。
共通の敵を作ることで結束力を高めるというネガティブな社交性です。
社内のお局が吹聴する、上司の悪口や後輩の悪口に同調しなければ、部署でイジメの対象とされますし、公園(井戸端)での旦那の悪口大会に参加しない主婦は、町内で村八分にされます。

たとえ嘘であっても、尊敬する上司や、可愛がっている後輩や、愛している旦那の悪口を言えない人は、いかに本当のコミュ力を持っていようと、コミュ障の「ぼっち」に成らざるを得ないのが日本の実情です。
日本人が全体的に孤独を好み、コミュ障寄りの人が多いのは、日本人の気質というより、そういう異様な偽物のコミュニケーションを避けているとも言えます。
「飲み会では無礼講だ、本音を語り合おう」という上司主催の飲み会でも、結局は本音という名の建前で為される地獄の空気読み合戦です。
部下は大して悩んでもいない悩み事を大袈裟に嘆き、上司のアドバイスを受けることでご機嫌を取り、帰りに涙を浮かべながら「明日から、もっと頑張ります」とお礼を言い、上司の満面の笑みを買う。
その半分嘘と半分本当の涙には、むしろ「会社の飲み会」という空気に同調するために自分(と他人)を欺いていることへの悲哀も含まれているのではないでしょうか。
そんな地獄の同調ゲームを繰り返していく内に、「それが大人になることだ」と自分を慰め、無感覚になり、ただただ空気に流されるだけの人形のようになります。
集団内でのぼっち(孤独)を避けるために。

日本的コミュ力の光と陰

勿論、小津安二郎の映画が世界で称賛されるように、言葉によるコミュニケーションより上位にある空気によるメタ・コミュニケーションは、時に有益であり美しくもあります。
しかし、それは、言葉によるコミュニケーションを前提(基盤)にしたうえで為されるメタ(上位)コミュニケーションであるからこそ、有益で美しい訳です。
言語的コミュニケーションだけではカバーしきれない領域を、言語外のメタ・コミュニケーションで補うから有益なだけです。
高い言語的コミュニケーション能力を持つ者が、あえて非言語的なコミュニケーションを為すからこそ、美しいのです。
例えば、詩は、散文からあえて言語を削り、少ない文字数に凝縮し、行間(空気)によって表現するから質的には豊かになり美しくなるのであって、日本語習いたての外国人が書く語彙が少ない貧しい文章とは本質的に異なります。
本当の意味でのコミュ力を否定し、空気への同調に置き換えるだけの偽のメタ・コミュニケーションは、有益でも美しくもありません。

互いのことを深く知り合っている(つまり通常のコミュニケーションを経た)カップルが、言葉の無い空気を読んだメタ・コミュニケーションでムード(空気)を作り、一緒に夜景を眺めるから、美しく有益なのです。
本当のコミュニケーションを禁じられた(本当の意見を言えばクビが飛ぶ)上司との間に、メタ(上位)コミュニケーションなど成立しません。
それは本当のコミュ力を奪われた奇形のコミュニケーションにすぎません。
(本当の)コミュニケーションを取らなければ取らないほど、コミュニケーション能力が高いと言われる、歪んだ異常な日本のコミュ力の存在が、「コミュ力」「コミュ障」という俗語の流行として炙り出されているのではないでしょうか。

例えば、日本文化を戯画的に凝縮したような京都文化にある「詩的美しさ」と「排他的陰湿さ」の表裏一体の関係は、このメタコミュニケーションにまつわる顕著な事例です。
「陰湿な京都人」とは、高次のコミュニケーション能力獲得に挫折し、奇形化したメタコミュニケーションを有する「偽の京都人」と言えるのであり、極々少数の「本当の京都人(もはや希少種)」には詩的美しさはあっても陰湿さはありません。
「陰湿な京都人」を叩く人々は、「京都人に成ることに失敗した京都人」を叩いているだけであり、希少種の本当の京都人と出会えば、印象が180度変わるはずです。

むすび

もし、クラス内のイジメに同調したり、社内の違法行為に加担したり、飲み会で上役のセクハラに耐えながらお酌をしたりしなければ、コミュ障として扱われるような場所(社会集団)にいるなら、むしろ「コミュ障」や「ぼっち」であることは素晴らしく名誉ある称号です。
「コミュ力」の美名の下に汚行への同調を強要され、断った際、きっと彼らはあなたを「コミュ障」呼ばわりしてくるでしょう。
その時は「そんなものはコミュニケーションでも何でもない」と、堂々と自分の意見を告げることを通して本当のコミュニケーションを自ら例示し、偽物のコミュニケーションに酔いしれている彼らに冷や水を浴びせてあげるべきでしょう。
彼らは憤慨し、よりあなたへの圧力を強め、ぼっちどころか居場所すら失うかもしれません。
しかし、その冷や水によって一部の人は目を覚まし、嫌々偽物のコミュニケーションに参加していた人たちが自らの行いを反省し、正気に返るかもしれません。

いずれにせよ、本当のコミュニケーションを禁じられる場所(社会集団)の多い日本において、正常なコミュ力を持ってしまった人を待っているのはいばらの道です。
諦めて異常なコミュニケーション(自己と他者の意見を殺した同調)にどっぷり漬かるにせよ、やんわり肯定して道化になるにせよ、やんわり拒否してぼっちになるにせよ、堂々と拒否して島流しの英雄になるにせよ、異常な世界で生きる以上、それぞれの困難があります。

 

おわり

 

おまけ、「同調」と「仲間」の違い

コミュ力の問題において非常に重要になってくるのが「居場所」です。
コミュニケーション能力という字面から、それは個人の能力であるとされがちですが、実質その力の大半は環境の問題です。

例えば、醜いアヒルの子がコミュ障イジメられっ子なのは、白鳥なのにアヒルの集団にいるからです。
白鳥が白鳥の集団に戻れば、コミュ障でなくなります。
白鳥が必死になってアヒルに合わせてコミュニケーションをはかる努力より、白鳥の群れに移住する努力の方が遥かに楽であり、かつ遥かにコミュ力も上がります。

日本で言うコミュ力とは、ある程度どんな種類の社会集団にも合わせられる柔軟性(一般性)と、それに起因する積極性が挙げられますが、それにも限界があります。
いくら個人的なコミュ力があっても、あまりに合わない場所にいれば、いずれ疲弊し、「本当の自分」や「あるがままの自分」などという虚構への憧れが生じます。

「同調」というのは、自己の本質(先天的に獲得した特性+後天的に獲得した特性+理想-未来に獲得するであろう特性-)を無視し、別のものに成れという圧力の下に集った集団です。
「仲間」とは、自己の本質の構成要素(先天的特性or後天的特性or理想)の下に集った人々です。
前者において私は永久に道化芝居をし続ける安心なき異邦人ですが、後者は自分の本質をある程度さらけ出せる安息の場所となります。

先天的特性しか持たない動物と異なり、人間は後天的特性や理想(未来の特性)の下に集える稀有な存在です。
つまり、アヒルと白鳥が共に仲間に成り、円滑なコミュニケーションをはかれる社会集団を実現することが出来ます。
同調のために個人のコミュ力を磨くより、仲間を探すために環境を変えること(さらに言えば自ら作ること)の方が、賢い選択だと、私には思われます。