人間の本質である「嘘」
人間の定義を裏側から述べれば、”嘘を吐くことのできる動物”と言えます。
嘘を吐くためには、主観と客観を往復したり、過去の記憶から未来を予測したり、言葉や表情など様々な次元のメッセージを駆使したり、動物とは異なるかなり高度な能力が要求されます。
幼児が母親にはじめて嘘を吐いた時、動物の世界から人間(大人)の世界への大きな一歩を踏み出すことになります。
人間はいつでも嘘を吐けるため、必然的に言動や制作物など人間の発するものには、常に「本物か偽物か」という懐疑が付きまといます。
多くの場合、それは互いの利害に関わってくるため、人間は嫌でも「本物か偽物か」にこだわらざるを得ない状態にあります。
大多数の人にとって、本物=信用
人間の目の前には、先ず真偽不明のものがあり、それを入念に検証することによって、本物かどうかを決定します。
貴金属の鑑定士が、真偽不明の金属を試金石に擦り付け、薬品を落とし、その色の変化によって、「本物の金か偽物の金か」を判別するように。
本物を見分けるには、相当の知識や経験を必要とします。
例えば、目の前の偽物の弁護士をその場で見破ることのできるのは、弁護士以上の知識を持った人間のみです。
本物を見分ける為には、それなりの知識や経験を必要とする為、それら鑑定力を有しない一般人は、非常に偽物をつかまされやすい状態にあります。
だからこそ、私たち一般人はその偽物の可能性を排除するために、やたら「信用」に頼る訳です。
信用のある百貨店で買った洋服だから本物だとか、信用ある国立大学の教授の見解だから本当だ、というように。
多くの場合、人々の「本物か偽物か」の判断は、イコール「信用の度数」に頼ったものであり、実際に自分で検証したものではありません。
多くの人々が、社会においては、実力(本物、中身)よりも、信用(保証書、箱書き)の方が力を持っているということを直感的に理解しているため、肩書きやブランドを獲得することに非常にこだわるのです。
信用の崩壊と本物に対する諦め
しかし、問題は信用自体にも「本物か偽物か」が存在し、捏造された信用であるという疑念を払拭することは困難です。
インターネットによって裏の事情がよく見えるようになった現代、信用ある権威がその信用を利用し、偽物を撒き散らす偽物の権威であったという事実が毎日のようにニュースになり、人々は頼るものを失いつつあります。
そうなれば、もう、自分自身で情報を集め検証する、という方法しかなくなります。
しかし、それが面倒あるいは困難だからこそ信用ある権威に依存していた多くの一般人は、もう考えることを止め、偽物を当たり前のリスクとして勘定し、受け容れるしかなくなります。
信用のないAmazonマーケットプレイスで買った商品だから偽物の商品が届いても半ば呆れ顔で諦めるように、信用のない政治家を選んだわけだから無茶苦茶な政策をされても、諦めて黙って従うのです。
YouTubeの偽物の医療情報で健康被害が出ても、マッチングアプリで偽物の情報を登録していた異性に騙されても、「仕方ない」で済ませ、本物との出会いは運任せということになります。
偽物が常態化した今、もはや誰も偽物であることを恥じず、むしろ本物にこだわる人間は馬鹿でダサく、重く煩い人間だと忌避されるようにすらなってきています。
多くの人々が「相手が偽物を流布するなら、自分も偽物を流布する」という姿勢に変わってきています(そうしなければ一人損になるため)。
致命傷にならない程度に、偽物に軽く本物を混ぜて、互いにリスク承知で互いを騙し合いながら交流することが普通になり、本物にこだわる人間は偽物の共演を破壊する(つまり自分たちの偽物性を暴く)邪魔な異物として、隅に追いやられます。
メディアリテラシーの範疇で「情弱(情報弱者)」と呼ばれる人は、「本物か偽物か」を判断する情報を持っていない人のことであり、彼らはそんな無数の偽物たちの格好の餌食にされます。
本物であることを諦めない人達の末路
中には、本物にこだわり、本物を発し続ける人もいます。
しかし、先に述べたように、人々は本物と偽物を自力で見分ける能力を持たないため、いつも本物は、もてはやされる偽物の影に隠れることになります。
勿論、圧倒的な実力を持った本物であれば、偽物の影からでも光り、人々の目に付く可能性も高くなります。
対象の「本物の強度」と鑑賞者側の「目利きの力(鑑定力)」はシーソーのような関係にあり、圧倒的な実力をもつ本物であれば、識別眼のない一般人でも本物だと気付きやすくなります。
しかし、高いレベルの本物以外の本物に一般人が気付くことは難しく、多くの本物が偽物に負け、消えていくか、ダークサイド?に堕ちていきます(つまり本物志向を止め自らも偽物に成る)。
何らかの事情で大衆が愚民化し、彼らの経験や知識(つまり鑑定眼)が希薄になればなるほど、本物は居場所を失い、ハリボテの偽物が跋扈するようになります。
また、分野によって、偽物を許さない仕組みの有無や強度が異なります。
プロスポーツ競技の世界はかなり厳重な偽物を弾く仕組みがありますが、それに比べると商売の世界は緩く、人間関係の世界においてはほぼ無法地帯です。
偽物の優しさ、偽物の誠実さ、偽物の強さなどをもつ偽物の人間が、本物の優しさや誠実さや強さを駆逐し、多くの真面目な人々が偽者に騙され、人間不信に陥るか、自身も偽物の共演に混ざり、反転して本物を忌み嫌うようになるかします。
偽物を禁じる程度は、”分野”の下位のカテゴリーである”組織”のモラルによっても異なりますし、その下位のカテゴリーの”個人”の生き方によっても異なり、一概には言えません。
偽物を放任するショッピングサイトもあれば、偽物を極力排除するサイトもあり、不正に甘いスポーツ団体もあれば、不正に厳しいペナルティーを科す団体もあります。
偽物だらけのショッピングサイト内でも真面目に商売するショップもあれば、不正だらけのスポーツ団体内でも実力だけで頂点に立とうと真面目に努力する人もいます。
しかし、いずれにせよ、本物を志向する人を待っているのは、周囲の無理解(過小評価)と、孤独な闘い(ハンデ戦)と、偽物に成ることへの誘惑(諦め)です。
本物はどこにあるのか
ここにひとつの難問があります。
社会的に認められていない隠れた本物は、本物であるのかどうかということです。
手塚治虫の漫画の主人公ブラックジャックは、世間一般の評価ではヤブ医者であり、彼に接したごく少数の人々にしか、その実力と天才は把握されていません。
探しさえすれば、ミシュラン星付きのシェフより料理の上手い主婦は普通に居るでしょうし、五輪競技の金メダリストに勝ってしまう身体能力を持った一般人もどこかにいます。
ノーベル平和賞を貰う偉人よりも、もっと平和に貢献している無名の善人は数え切れないほどいます。
本物を見分ける能力を持たず、ブランド(悪く言えば偏見)に頼るしかない私たち一般人は、すぐ隣にいる本物を見過ごし、壇上に立つ(つまり本物保証された)本物のみを仰ぎ、崇めます。
中島みゆきの『地上の星』の歌詞のように、私たちは遠く高い空の星(スター)を見つけることは出来ても、近く低い地上の星を見付けることは出来ません。
地上の星を見付けることができるのは、ツバメのように鳥瞰的(客観的)な視点で物事を見ることのできる者のみです。
偏見なく客観的に物事を見、かつ先に述べたように知識と経験(鑑定眼)を持つ人しか、地上の星を見付けることができないのなら、社会的に認められていない「本物」が見付けられる可能性は、極めて小さいと言えます。
だからこそ、地上の星は自らの努力によって昇り、空の星に成らなければなりません(後述)。
三つの本物
世の中には三つの本物があります。
A.名だけが本物(つまり偽物)、B.実だけが本物(つまり隠れた本物)、C.名実ともに本物、です。
AとBは共に不完全な本物で、互いに対立してはいますが、態度自体は同じです。
名だけの本物は実(実質、実力)を得ることに無関心、実だけの本物は名(社会的評価)を得ることに無関心で、多くの場合、互いを蔑み合っています。
これは古くからある存在論的な対立の構造と似ており、「認識されたもののみが実在」vs「認識されずとも実在は自立して在る」という世界観の違いです。
完全な本物とは、名も実も揃った本物です。
名だけの本物(つまり偽物)は、名に見合うような実を得るよう努力すべきですし、実だけの本物は、実に見合うような名を得るよう努力すべきなのです。
前者は確信犯的に行っているので聞く耳を持たず、完全な本物になる可能性は低いですが、後者は努力によって実に見合う名を獲得し、完全な本物になる可能性があります。
映画の主人公のような「名も無き孤高の天才(世間に認められない本物)」に憧れるのは勝手ですが、だからといって名だけの本物を見下すのは、自身のコンプレックスを他者に投影した同族嫌悪とも言えるネガティブな態度です。
それは世界を捉える枠組みの違いからくる対立にすぎず、本当の本物は、唯名論者(※1)からも唯実論者(※2)からも認められる本物にならなければなりません。
多くの場合、実力はあるが成功できない唯実論者は、”ズルい方法”でのし上がった唯名論者を馬鹿にする訳ですが、本当に為すべきは、低い実をすら高い名にすることのできる唯名論者の表現力や行動力を学ぶことであり、それによって自分の高い実を高い名にしなければならないのです。
※1、既存の哲学概念ではなくネタ的な造語として使用しています。社会的評価(外見)のみが力だと考える人々のことを指しています。
※2、造語です。実力や実質(中身)がすべてであり、社会的評価など無意味だと考える人々のことを指します。
完全な本物に成る責務
「自分は本当に名などどうでもいい、唯名論者を見ても、羨望や怒りなどのネガティブな感情も抱かないし、本当にどうでもいいんだ」と言う唯実論者もいます。
しかし、そんな唯実論者こそ、名を獲得し、真の本物に成らなければならないのです。
それによって、失われた名の信用をもう一度社会に取り戻し、人々が偽物に向かう現代の潮流を食い止めることができるからです。
唯実論者が名を得ることに無関心だからこそ、唯名論者(つまり偽物)が幅を効かせるのです。
先述のように、高い名に高い実を揃えられる可能性があるのは、唯実論者の方です。
名ばかりのトップを、名も無き実力者は下の立場から冷ややかに眺めるわけですが、実の所、そういう状況を生み出しているのは、後者の怠慢(名を得る努力からの逃避と、社会的信用に対する無責任)なのであり、それを変えられるのは後者のアクションのみです。
名だけの王の圧制に苦しむ人々を助ける為に、世俗を嫌う名も無き実力者は、重い腰を上げて、自らが名実ともに優れた王となる努力をしなければならないのです。
唯実論者が名だけの王に向ける冷ややかな目は、実のところ、自らの怠慢と無責任に対して向けられたものでもあるのです。
また、その怠慢と無責任から生じる自己の内奥の羞恥を、名だけの王に騙される愚民に対する憫笑によって、(笑って)誤魔化すのです。
出来の悪い生徒たちをあわれみ笑うことによって、自らの無能を自らに隠す教師のように。
名も無き実力者には、名を得て完全な本物に成るという社会的責務があります。
おわり