理由の探求
学問の基本的な目的のひとつが「理由(原因)」を探すことです。
理由が分かれば、何らかの悪い問題を解決したり、物事を良い方向へ操作的に動かしたりすることができます。
例えば、風邪をひきやすい人がいれば、その原因を探すことによって健康な生活が送れますし、経済的に貧しい国であれば、その原因を探すことによって豊かになります。
理由は無数にある
ある一つの出来事を生じさせる理由(因子)というものは、数えきれないほどあります。
無数の因子が同時に関わり、あるひとつの出来事を生じさせるため、実験するなり統計的な情報を集めるなりして、各因子の影響力や確率の大きさによって順位を付ける必要が出てきます。
そして、大きいものから順に実践的な検討をなすことによって、問題は解決されます。
例えば、私が今日風邪をひいた原因を探究する場合、主な因子は、気温、湿度、栄養状態、睡眠時間、肉体疲労、精神疲労、服装、衛生管理、空気中のウイルス濃度などになり、これに優先順位を付け順に検討することによって、原因が解明されます。
重要なことは、問題解決した後に初めて原因が分かるのであり、問題解決前にあれこれ述べられる原因は、ただの「思いなし(明確な根拠なく信じること)」と「仮説」にすぎないということです。
つまり、「理由(原因)」には、三段階あるということです。
1.思いなしとしての根拠なき理由(因子)
2.無数の思いなし(根拠なき因子)を集めて、優先順位が付けられた上での上位の因子である「仮説的な原因」
3.その仮説的な原因を実践的に検討し、問題解決後に明確になる「本当の原因」
※ここでは便宜的に、無数の「因子」のうち、元も影響力の大きい因子を「原因」と定義付けています。
あらゆる「思いなし」は正しく、同時に間違っている
ある出来事の因子は無数にあるため、たとえ「思いなし」であっても、それが理由(因子)に関する思いなしである以上、誤りであるということはありません。
あくまで影響の大きさの問題であり、取るに足らない因子は、とりあえず無いことにしておくだけです。
例えば、血液型が性格に影響を与えることを述べる「血液型性格診断」など馬鹿げているように思いますが、厳密に言うと間違っているわけではありません。
ただその影響が、遺伝子や文化的影響などの大きいものに比べれば、無いに等しいほど小さいということにすぎず、極小ながらも何らかの影響は与えているはずです。
悪く言えば、いかなる理由も理由になるということです。
物理的に言えば、ある嵐が生じた理由を、ある一匹の蝶の羽ばたきが生じさせた小さな気流の所為にすることも可能です。
つまり、あらゆる理由に関する思いなしは、在るか無いか(ゼロイチ)の面においては常に正しく、影響力の大きさという点においては間違っている(無いに等しい)ことがある、ということです。
“専門家”の述べる理由は単なる「思いなし」
専門家というのは、自分の専門領域という図式内において、理由(原因)を探究する人々です。
ある出来事の因子は無数にあるため、専門家が述べる理由というものは、その無数のうちのひとつの「1.思いなしとしての根拠なき理由(因子)」にすぎません。
焦点を拡大するため、特に原因の特定の難しい心理的問題の例を挙げます。
例えば、非常に「怒りっぽい人」がいたとします。
その原因を述べる際、学者によって見解が異なります。
劣等感、リビドー(性欲)、ルサンチマン(恨み)、動物的攻撃衝動、感情による他者の操作、遺伝、健康状態、経済状態、風土(地理的環境)、人種、文化、メディアの影響、役割期待、対人関係論的布置、等々、延々と数え上げていくことができます。
これら専門家の意見はすべて正しい(極小であっても何らかの影響力は持つ)のですが、原因(最も影響力の大きい因子)と言えるかどうかは、実践的に検討してみないと分かりません。
アドラー心理学は「劣等感」という図式内で物事を解釈するだけ、フロイトの精神分析は「性欲」という図式内で物事を解釈するだけ、進化心理学は「進化論」という図式内で物事を解釈するだけであり、俗っぽく言うと「そう見ようとするから、そう見える」という作業にすぎません。
「思いなし」のぶつけ合い
専門家たちは視点を提供するだけです。
提供されたその無数の視点のうちのどの視点を採用すれば、ある現実の物事の形を正確に見ることができるかどうかを検討するのは、実践に生きる私たち自身です。
本当の知識人とは、無数の専門家の視点を獲得した上で、それらを比較検討し、現実における目下の問題解決の原因(本質的な視点)を提供してくれる人です。
知識人とは、専門家と一般人をつなぐはずの人です。
しかし、これは理想であって、実際は専門家も知識人も自らの非常に偏った「思いなし」をたった一つの真の原因だと思い込んで声高に叫んでいるのが現状です。
一般人も彼らの真似をして、単なる思いなしをぶつけ合っています。
あるイジメの原因は、加害者だ、被害者だ、加害者の親だ、被害者の親だ、教師だ、傍観者(クラスメート)だ、暴力メディアだ、学校システムだ、経済政策だの、ただただ”1.根拠なき思いなし”で罵り合うだけで、”2.無数の思いなし(因子)を集めて優先順位を付ける”作業をしようともしません。
そんな中では、ただ主張の強い者の「思いなし」が採用されるだけで、問題解決はほとんど運任せです。
むすび:雑な話
「エロ漫画は性犯罪の原因だ!」
その通りです。
「フェミニズム活動の動因は、非モテ不細工ババアの恨み」
その通りです。
「男が持つ愛の真の原因は、勘違いされた性欲だ!」
その通りです。
「血液型で性格が分かる!」
その通りです。
で、その影響のほど(程度)は?
ということなのです。
私は古典を紹介するサイトを作っています。
どういう理由で?
「知識の畜集欲?」
「お金のため?」
「ファッション(衒学趣味)?」
「フォロワー増やす(売名)ため?」
「自己正当化(言い訳)のため?」
「反復学習のため?」
「備忘録?」
「ケーモウのため?」
「他人に古典をすすめるため?」
「優越感にひたるため?」
「人生訓(人生のハウツー)として?」
「謎解き的な快楽のため?」
「閲覧数(スコア)アップのゲーム感覚?」
「議論に勝つため?」
「脳トレ?」
「コミュニケーションツール(話題のネタ)?」
「暇つぶし?」
「先延ばし行動?」
「惰性?」
「性癖?」
以下、延々とつづく
すべて、その通りです。
いかなる理由も少しは動機としてあります。
ですが、その優先順位を決定するのは至難の業です。
外面(そとづら)や意識、つまり口では良いことを言うので、「世の中を少しでも良くしたいから、古典的な教養をみんなに知ってもらいたいんだ!」なんてもっともらしい事を述べたり思ったりしても、信用なりません。
先にも述べたように、これら無数の因子のうち、どれが真の原因かは、現実的な結果から判断するしかありません。
例えば、私がグーグル広告を付けていたとして、広告単価が下がって投稿を止めたなら、「お金のため?」が主要な因子(原因)であったことが判明します。
例えば、閲覧数が激減して投稿を止めたなら、「お金のため?」「フォロワー増やす(売名)ため?」「ケーモウのため?」「他人に古典をすすめるため?」のどれかが原因であると絞り込めます。
あなたの行為に対して、様々な人が様々な「思いなし」をぶつけてくるでしょう。
「金の為の年の差婚だろう」「子供を売名に利用している」「トロフィーとしての彼女」「哀れな子なし女の保護猫活動」「聖者ぶりたいがための介助職」等々。
その際、怒って全否定するのでもなく、傷付くのでもなく、そういう面もあるということを淡々と受け容れた上で、現実の行動(結果)によって自身の行為の真の原因を炙り出していくしかありません。
彼との結婚の理由が”金の為の年の差婚”だったかどうかは、彼が財産を失い普通の人並の所得になった時、別れるかどうかという行為(結果)によってのみ判明します。
ある出来事の因子は無数にあるという当たり前の事実だけは、常に認識しておかねばなりません。
理由なんて分からないのが普通です。
むしろ理由を堂々と述べる人に対しては警戒するか、行動(結果)によって原因を突き止めた偉い人だと尊敬するか、のいずれかでしょう。
例えば、企業理念なんて嘘ばかりですが、ごく稀に理念通りの企業経営を行動によって証明している尊敬すべき社長さんもおられます。
おわり