自助の精神
自助の精神を述べる有名なことわざとして、「天(神)は自ら助くる者を助く」というものがあります。
古代ギリシャから伝わるものですが、特に日本においてこの言葉が広く使われるようになったのは、明治日本の近代化において欧米的な主体性の精神が輸入された時です。
自助とは自分で自分を助けること、言葉を変えれば自立的に生きていくということです。
神様は普遍的なものなので、分け隔てなく平等にみんなを助けてくれそうなものですが、そうではないようです。
自ら挑戦し努力した者にしか、神は助けの手を差し伸べないのです。
挑戦も努力もしない者の祈りは、聞き入れないのです。
なぜでしょうか。
それは、自らの力で自らを助けようとする自助の精神なき者を助ければ、むしろその人の状況をもっと悪いものにしてしまうからです。
神はその人を助けるために、あえて助けないのです。
自分を助けられるのは自分だけ
本質的な意味で人は、他人を助けることなどできません。
自分を助けられるのは自分のみです。
喩えるなら、自分という車を運転できるのは自分自身だけであり、その席を誰かに譲って、代わりに運転してもらうことなど決してできないのです。
他人ができることと言えば、燃料を与えたり、修理をしたり、トラブル時に牽引したり、間接的に何かを出来るだけです。
誰かのために何かをできるなど思い上がりでしかなく、できることは、期待(助けになるという見込み)をこめた不確実で間接的な支援のみです。
二種類の困窮者
助けを求める人は、二種に分けられます。
ひとつは自助の精神を持ちながら、助けを求める人。
この種の人は、助けられることによって、生き返る人です。
何らかの問題のため、自助の力(自ら生きる力)を発揮することが出来なくなっている人を助ければ、水に戻った魚のように、活き活きと泳ぎはじめます。
例えば、一過性の困窮によって、働きたくても働けなくなってしまっている人を支援すれば、その状況を乗り越え、生き返ります。
生き返った人は、助けてくれた人に対し、きちんと感謝できる人です。
もうひとつは、自助の精神を持たず、助けを求める人。
この種の人は、助けられることによって、むしろ死ぬ人です。
自助の力を発揮する(自分で生きる)のが面倒なので、誰かにそれをやってもらおうとする人です。
彼を助ければ助けるほど、むしろ自助の力(生きる力)を失っていき、精神的、人間的に死んでしまいます。
彼は助けられても、まだ足りないと言って、さらに助けを求め、永久に援助者に依存し続けることになります。
誤った助けは二人の人間を殺す
考えてほしいのですが、もし、私が自助の精神を持たぬ人を助ければ、それは同時に、本当に助けを必要としている自助の精神を持った困窮者に渡すべきだったものを失うことになり、二人の人間を殺してしまうことになります。
さらに言えば、私の労力や財も無駄にすることになり、三つの損害が生ずることになります。
これは共助(隣人共同体による支援)や公助(公的機関による支援)の場合も同様です。
皆の財を少しずつ減らしても、それが困窮した仲間が生き返るためのものとして使われるなら、多くの人は文句は言いません。
しかし、その財が、むしろ二人の仲間を殺すために使われたなら、皆、怒るに決まっています。
枯れてしおれた花にやるための水を、水をやりすぎてしおれた花の上に注いでとどめを刺すような二重の残酷さを、時に人は「やさしさ」などと呼んでいるのです。
ですので、他人を助けようとする心ある人や、社会的な分配を裁量する立場にあるような人は、よく考えてから実行にうつさねば、多くのものを無駄にしてしまうことになるのです。
「天(神)は自ら助くる者を助く」のは、助けるべき人を助けることがその人の助けになり、助けるべきでない人は助けないことがその人の助けになる、という意味を含んでいます。
動物ですら、我が子を助けるのは、自助の力(自ら生きていく力)を育むためです。
自助の力が育てば、もう助けることを止め、子は自立して生きていきます。
ヒトの場合、反対に、子の自助の力を喪失させ依存させるために、子を助け続ける親がよくいますが(甘やかし)、そんな異常なこと為せるのは人間だけです。
それは他者を政治的な隷属状態に置くための狡知な術策です。
相手の自助の力(自立)を封印するための、善意に隠した悪意です。
過保護のママは、子を大切にしているから助けるのではなく、子をずっと自分の所有物にしていたいから、子が自分の足で歩けなくなるよう抱っこし続け、不具にするのです。
自助の力は困難の中で育まれる
多くの偉人たちが、若い頃の苦労を推奨するのはなぜでしょうか。
それは端的に、人を強くするものは負荷のみだからです。
負荷をうまく利用することによって身体を強くする筋力トレーニングのように、心を強くするのも心的な重さだからです。
勿論、この心的重さは、外部から与えられる「困難」だけでなく、自ら引き受ける「責任」においても生じる負荷です。
例えば、健康でお金持ちで心豊かな境遇にあり困難から縁遠い人であっても、自ら社会的な問題(困難)を引き受け、他者の重荷を背負う時、同じような心的負荷がかかります。
お坊ちゃまお嬢さま育ちの人が、やたら社会問題に関わろうとする動機は、それがステータスであったり、裕福さからくる負い目であったりしますが、本質的には真剣に生きたい(生を充実させたい)からこそ、あえて困難を背負うということです。
これは馬鹿らしい苦悩の美化や無意味な根性論ではなく、原理的な問題として言っています。
困難は人を考えさせ、困難は人を目覚めさせ、困難は人を真剣にさせ、困難は人生に張りを与え、困難は心身の抵抗力と筋力を増大させ、困難は思いやりの心(情)をはぐくみ、困難は仲間(協力)の大切さに気付かせ、困難は事物の存在意味を開示してくれ、そのありがたさを教えてくれます。
それとは反対に、安楽は人の思考を停止させ、安楽は眠りに誘い人の目を見えなくし、安楽は人を怠惰にし、安楽は人生をぼやかし、安楽は心身の抵抗力と筋力を減少させ、安楽は同情の心を失わせ、安楽は社会性を失わせ、安楽は事物の存在意味を覆い隠し、そのありがたさを忘れさせます。
重さのみが人を強くする
困難の中で、人は自助の力(生きていく力)を強くし、安楽の中で、人は自助の力(生きていく力)を弱めていきます。
偉人たちは選択に迷った時、あえて困難な道を選ぶ人が多いのは、それが後の自分の成長や利益につながると、長期的な視座で物事を見ているからです。
筋力のトレーニングのように、今生きている重力より重い負荷を与えながら生活すれば、その分筋力は増大し、軽い重力の中で生活すれば、筋力はどんどん落ちていき、いずれ通常の空間では自立することができなくなります。
精神も同様に、精神的重荷を背負う状況にある時にのみ、強くなるのです。
勿論、負荷が大きすぎれば身体が壊れてしまうように、大きすぎる困難は心を潰してしまいます。
しかし、物理的重さと違い、心的な重さは、心の持ちよう、考え方、認知のあり方次第で、大部分制御できます。
筋トレにおいて負荷の大きさを身体の強化に合わせてうまくコントロールするように、困難な状況の心的負荷をうまく制御しながら、それを生きる力(自助の力)に変えていくことは十分可能です。
究極的な困難は自助でどうにかなるものではありませんが(たぶんそのために宗教がある)、日本に生きている限りそんなことは稀です。
困難ではなく、誤った解決法が人を弱くする
しかし、人は、大きすぎるわけでもない困難によって、自助の力(生きる力)を失ってしまうことが、多々あります。
それは、困難な状況に対し正面から向き合わず、病理的な解消法をとる時に生じます。
諦めなどによって手っ取り早く疑似的に安楽の状況を作ろうとする時や、自分の人生を他人に丸投げしてしまうような時です。
いわば、悪い意味で涅槃の境地にいたることによって安楽を得ようとしたり、すべて他人任せ他人のせいにすることで楽になろうとすることです。
諦めによって思考を停止させ、諦めによって全てに目を瞑り、諦めによって惰性に生き、諦めによって心身は無防備となり、諦めによって情も仲間もどうでもいいものとし、諦めによって事物の存在意味は虚無に帰します。
困難が人を駄目にするのではなく、困難から逃避するためにとられる病的な解決法(安楽を疑似的に再現すること)が、自助の力を弱めるのであり、負荷(困難)そのものが問題なのではありません。
困難への対処の仕方次第で、「貧すれば鈍す」となるか、「艱難汝を玉にす(Adversity makes a man wise.)」となるかに、分かれるのです。
自助の精神がなければ、助け合いは生まれない
自助の精神を持つもの同志の助け合いが「共助」です。
自助の精神を持つ人たちが集まり、代表者を決め、その代表者に全体を仕切る公的仕事を任せたものが「公助」であり、公は無数の私の代理です。
それに対し、自助の精神を持たない者への助けは、扶養や所有や隷属の関係であり、助けではありません。
個々人が自助の精神を持たなければ、助け合いの力、地域社会(共助)や国家(公助)の力は弱まっていきます。
自助で出来ぬことを共助が為し、共助が出来ぬことを公助が為すことによって、それぞれの助けが余計な方向に労力を使わずにすみ、本領を最大限に発揮できるのです。
これは自助が死ぬまで闘って、負けたら共助、公助が出てくる、というような、柔道団体戦の勝ち抜き戦方式のような意味で言っているのではありません。
悪しき管理者は都合よくそう捉え、自己責任論、自助論の名のもとに弱者を切り捨てようとします。
そうではなく、ここでは単純に自助、共助、公助のそれぞれの特性、能力に則した役割分担(面目躍如)のことを指しています。
自助論は真の弱者を救うためのものです。
皆が自分の足で歩けるような社会を作るためのものです。
自助の弱体化は共同体を亡ぼす
例えば、日本では病気になっても手厚い助け、共済や国民皆保険があるから、俺は不摂生して生きてもいい、というのでは本末転倒です。
ガチガチに保険に入ってるからと言って、乱暴な運転をして平気で事故を起こす暴走族のようなものです。
自助によって防ぎきれないものをカバーするのが、共助や公助です。
先にも述べたように、自助の精神なき者のために使われる共助や公助の力は、本当に助けるべき人に注ぐべきものを奪い去るのです。
当然、社会の成員の自助の力が弱くなれば、共助も公助も必要以上の範囲の仕事を背負い、疲弊していき、質が落ち、やがて破綻します。
自助の欠如は、個人も地域共同体も国家も、すべての力を弱めるのです。
なぜなら、民主主義において基礎となるのは個人であり、国家はその個人の一般化したものでしかないからです。
よく言われるように、国家が親で市民が子なのではなく、市民が親で国家が子であるという当たり前の事実を、もう一度確認しておかねばなりません。
耕さない畑に実りはない
市民の質が国家の質を決定しているのであり、私利私欲のために国を私物化する政治家は、私利私欲しか考えない市民の正確な反映でしかありません。
例えば、無能な者が集まるクラスの、学級委員の候補者は、当然無能な人々です。
いかにその中に優れた人が偶然いたとしても、投票するのは無能な人々であり、結局選ばれるのは、無能な候補者です。
勿論、市民と国家の質の影響関係は相互的なものです。
問題は、多くの人が国家から市民への影響ばかり見て、市民から国家への影響を見ないことにあります。
優れた将軍が優れた軍隊を作るのではなく、優れた兵隊たちが優れた将軍を出現させるのです。
集団の成員の個々人が賢く強くならなければ、優れた国家など実現しません。
個人では何もせず、救世主のような天才的な指導者を待っていても、決して現われはしません。
なぜなら、どんな優れた種も腐った土壌では芽を出すことができないからです。
救世主の救いを待つのではなく、個々人が自分たちの力で世界を耕すことでしか、恵みは獲得できません。
「天は自ら助くる者たちを助く」のです。
おわり