自由意志
哲学においてもっとも雄弁に語られる自由は、サルトルに代表される実存主義的自由です。
古くはローマ皇帝マルクス・アウレリウスの指導理性から、スティーブン・コヴィーのような現代のハウツー本まで、その自由は変わることなく語り継がれる普遍的ともいえるものです。
実存主義的な自由を分かりやすくいうと、行為決定において人間は自由かつ主体的に選択できるということです。
例えば、動物や赤子をつねりあげれば、必ず鳴き声(泣き声)や悲鳴を上げます。
それは痛みという環境を与えれば、必然的に鳴く(泣く)という行為がアウトプットされるということです。
主体性のない物や動物や赤子は環境因によって、決定論的な必然や運命に支配された、自由なき存在だというわけです。
しかし、主体である人間は、与えられる環境とそこから出てくる行為の間に、意思というものが介入します。
だから、つねりあげられても、「大の大人が泣くなんて格好が悪い」とか「泣きを入れれば加害者に負けることになる」とか、意思を介在する事によって、泣かないという行為選択が可能になります。
これがいわゆる自由意志です。
実存主義的自由は、この主体の意思と自由を優位に置く考え方です。
では、彼らは必然をどう見るかというと、そんなものは「どうでもいい」のです。
サルトルからすれば、自分の行為選択があらかじめ決定論的に決められた必然かどうかを知るには、自分が今生きるリアルな世界から出るしかないのです。
おとぎ話の亀の甲羅の上で生きる人間は、自分が亀の甲羅の上で生きているなど知る方法はありません。
おとぎ話の読者は、彼らの生活の外にいて、超越的な視点から見ているからこそ、彼らが甲羅の上に住んでいると知ることができるのです。
仮に人間が、自分では気付かないうちに決定論的な世界に生きているとしても、人間は神のように人間世界を超越した場所に立てない以上、決定論など考えても意味が無い(ナンセンス)のです。
自由意志の批判
このサルトル的な人間中心主義の自由を批判するものとして、(教科書的にいえば)構造主義などが挙げられます。
人間の行為選択は事前に、目に見えない隠れた構造や知的枠組みにあらかじめ決定されており自由ではない、というのが彼らの主張です。
レヴィ=ストロースの構造や、フーコーのエピステーメーや、クーンのパラダイムなどの概念を知れば、確かにそう思えてきもします。
しかし、サルトルとっては、それは単なる後だしジャンケンにすぎないのです。
隠れた構造や事前にある知的枠組みを語る思想家の多くは、いま現在に生きる人間そのものの枠組みに関しては知ることができない、と言います。
パラダイムにしろエピステーメーにしろ、それは新しい知的枠組みがやってきて、今あるものが過去になった(死んだ)時、はじめて自覚できるものだというのです。
しかし、それでは、人間はすべての行為をし終えた(死んだ)時にその行為の必然や意味が決定する、と言うサルトルとなんら変わりがないのです。
言っていることの本質は、亀の甲羅の例と同じです。
いま、現在、生成していく行為の必然を開示できないのであれば、サルトル的な自由は生き続けます。
必然の歴史的な記述などでは、強固な主体の自由意志の感覚を崩すことは不可能です。
過去においてはそうであったという事実に、現在の私もそうであるよう結論付けられるいわれはないからです。
真の自由
このサルトル的な自由を、もっと本質的な部分から批判するのが、スピノザです。
世界は完全に必然によって充たされた世界であるとスピノザはいいます。
しかし人間の知性には限界があるため、それを部分的にしか認識できないため、勝手に自由であると思い込んでいるわけです。
世間一般から実存主義的自由まで、主体による既存の「自由」の概念とは、単なる必然に対しての「無知」でしかないのです。
ではスピノザにとって(真の)自由とは一体どういうものなのでしょうか。
それは必然の認識であると彼はいいます。
一般的な見解とは真逆で、必然を知れば知るほど人は自由になる、というのです。
一般的には、目の前にある様々な種類の果物の中から、自由に自分の意志によって好きなものを選ぶことが「自由」だと思われています。
しかし、ここで本質的なことは「選べる」ということではなく、「好きなものを知っている」ということです。
その行為決定の必然「私は洋梨が好きだから、洋梨を選ぶ」ということを知っている、それが自由の感覚の正体なのです。
もし、私がどれを選べばよいのか分からないならば、自由の感覚は生じません。
むしろ選べないというその不自由さに、頭を抱えることでしょう。
また、いじめっ子に強制されて、好きでもないリンゴを選択させられる時、私は不自由を感じます。
それは他のものを選ぶことができないからではなく、リンゴを選ぶ理由(必然)が、いじめっ子の中にあり、私はただ不条理に、何の理由(必然)も知らずにリンゴを選ばなければならないからです。
例えば私が心理学を学んだとして、人間の行為決定の必然性を知れば知るほど私は不自由になっていくでしょうか。
むしろ今まで私が動物のように脊髄反射的に感情に任せて行為決定していた頃より、はるかに自由になっているはずです。
駆り立てられるようにブランド服を買い集めていた学生の時に感じていた自由は、真の自由ではなく、他者の欲望の転移や承認欲求や自信のない自分の中身を補うための見栄だと、その行為決定の必然を知った時、より私は自由になれるのです。
結局、サルトルの自由の正体とは、動物的に生きる主体性のない人間よりも、「行為決定において意思というものが介入する」という行為決定の必然の原理を余分に知っていることから生じる、自由の感覚です。
考えもしないで(意思を介入させないで)行為する無知な人間よりも、一段階行為決定の原理(必然)をよく知っているというだけで、無知よりちょっと賢い無知でしかないのです。
同じ登山をする人でも、ハイキングをしにきた人には楽しく、山の向こうに行商に行く人には難儀な苦痛でしかないように、環境因というものは人間の目的設定(意志)によって自由に決定できる、というのがサルトルの主張です。
しかし、ではなぜ私はそこまでして自由であらねばならないかの必然には答えられません。
なぜその環境が私に良いものであったり悪いものであったりするのか、なぜ私は意思を介入させてまでその選択をするのか、などのより根本的なことは無視されます(構造主義はサルトルのココを叩いています)。
だから実存主義的な自由を生じさせるさらに深い所にある必然を知った時、私たちはさらに自由になるのです。
たしかにサルトルの言うように人間は神の位置に立てないため、完全に必然を認識することは不可能です。
しかし、漸次的にそこへ近づいていくことは可能です(ゴールのない旅程)。
そうして世界を動かす原理(必然)を知り、世界を必然の知で埋めていけばいくほど、人は自由になっていきます。
結局、自由意志(選択と決定の可能性)などというものは、理由(必然)を知らない中途半端な知識から生まれるものです。
その行為決定の必然を知り尽くし、迷うことなく選択する時、自由と必然が同期しており、そこに選択するという余地はありません。
不自由も同様に選択の余地がありませんが、それと決定的に違うことは、行為主体に必然(理由)が認識されているということです。
私たちが最も自由を感じるときは、行為決定の選択をしている時ではなく、何をすればいいかが分かっているという、自分の使命の中で、迷うことなく行為している時です。
必然の認識によって行為決定の選択肢がせばめられるほど、人は自由を感じます。
必然が認識されないままに選択肢がせばめられれば人は不自由を感じ、必然が分からず何を選択すればよいか分からない時も不自由を感じます。
自由の本質とは、必然の認識のことなのです。