演繹
演繹とは、基本的な推論の形式です。
いくつかの前提から結果(結論)を導き出す、いわば「下り」の推論です。
形式的には、
前提「AならばB」「Aである」→結果「よってBである」
前提「AならばB」「Bでない」→結果「よってAでない」
などというような形になります。
具体的には、
前提「すべての人間は死ぬ」「ソクラテスは人間である」→結果「よってソクラテスは死ぬものである」
前提「すべての人間は死ぬ」「ティーターンは死なない」→結果「よってティーターンは人間ではない」
などというような形になります。
演繹において重要なことは、前提がすべて「真」であるなら、結果も必ず「真」になるということです。
しかし、この確実性「真理保存性」は、裏を返せば、知っていること(すでにある情報)をレゴブロックのように組みかえているだけで、なんらの新しい情報も付け加わっていないということです。
その長所は、今ある情報を組みかえることで、見過ごしていた可能的情報を現実的に把握することです。
「暖かい物は上昇する」という前提から、熱気球を生み出すような知のあり方です。
帰納
帰納とは、演繹と対になる推論の形式です。
いくつかの結果から前提を導き出す、いわば「上り」の推論です。
結果「Aさんは死んだ」「Bさんは死んだ」「Cさんは死んだ」「Dさんは・・・。
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前提「すべての人間は死ぬ」
などという風に、結果を推論する演繹とは逆に、帰納は前提を推論する形になります。
しかし、結果というものは無限に枚挙できるわけではないので、帰納的推論はつねに誤る可能性を持っています。
結果「サクラの木は水に浮く」「スギの木は浮く」「マツの木は浮く」「ビワの木は・・・。
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前提「すべての木は水に浮く」
仮にどんどん試していって500種の木が水に浮かんでも、501種目に「コクタンの木」に当たった時、それは水に沈み、帰納の誤りが露呈します。
この誤りの可能性は決してネガティブなものではなく、帰納が演繹のような単なる今ある情報の組み替えから脱する飛躍のために生ずる、チャレンジにおけるリスクのようなものです。
新しい理論や仮説を生み出し、情報を付加するのは、この帰納の飛躍によってのみです。
帰納と演繹の結合=科学
古代においては帰納と演繹はその発明者であるアリストテレスの論理学の方法論であったわけですが、近代フランシス・ベーコン以降、それは科学の基本的方法論として精緻化されて利用されるようになります。
1、<帰納>によって、現実の結果である個々の事象やデータから、それらに共通する普遍の法則のようなもの「理論」を仮説的に導き出します。
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2、<演繹>によって、その理論仮説がはじき出す必然的結果を導出し、その予測が結果として正しければ、仮説的理論は確証性を増し真理に近づきます。
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3、しかしこの予測が間違っていれば、それは反証されたものとして破棄され、あらたな仮説が帰納によって立てられます。
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この繰り返しで、科学は着実に進歩していきます。
この<帰納>による仮説理論の構築が私たちに新しい情報(知識)を付加し、<演繹>による予測の導出と実験がその情報に実証的正しさを与えるわけです。